ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:横浜 > 神奈川

今日の10時勤務中、突然、そこらじゅうの携帯から一斉にppp_ppp_ppp_と甲高い音が鳴り響いた。さあ、なにごとかと、携帯を見ると
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ちと、やり過ぎではないだろうか。

今年もいろんなことがあった。長年勤めていた会社も再雇用終了。65歳からの再就職試験。spipcで受けたり、ネットで申込したり。65歳の壁は険しい。まあ、でも、なんでも挑戦するのは楽しいね。


結局、なんとか再就職。しかし、安給料に、こんなんやってられるかよと言いながら毎日、仕事に出かけながら、資格を取って、再度挑戦に燃えている。何歳になっても負けず嫌いに笑うしかない。


面接の時に何歳までやれるのかと聞かれたので親父が83歳まで仕事をしたので、そこらまではと答えた。面接官にとってはいい迷惑。さすがに落とされた。


日本人って年齢、年齢って言い過ぎるんだよね。こう思う私は、ある意味変人なのかも知れない。


2020年人生2回目のオリンピック。なんとか参加したいと思いボランティアやチケットに応募したが見事に落ちた。オリンピックはどうしょうか。


ネットで面白い記事がでていた。


新任高齢者のツイート  阿川佐和子


いよいよ高齢者の仲間入りをした。人呼んで前期高齢者。だからなんだという感慨は別にないけれど、あと何年ぐらいこうして万事おおかた滞りなく日々を暮らしていけるだろうかと、ふと思う。十年後には七十五歳。その名称が残っているとするならば、後期高齢者に突入する。十年なんてあっという間だ。十年前に何をしていたかを思い出すと、時の流れの速さを実感せざるをえない。


そもそも高齢者を「前期」とか「後期」とか、誰が二分割したんだ? 「前期」には、「そろそろ身の回りを整理して、終活を始めてくださいね」、さらに「後期」という言葉には、「まもなくお迎えがきますよぉ。準備はよろしゅうございますか」という囁きが込められているように聞こえるではないか。


そんな呼称をつけておきながら、一方で国は「人生百年時代到来」を唱え、「もっと働いてください」と言い出した。どっちなんだ。長生きはめでたいのか、それともお荷物なのか。もはや全人口の三分の一に近づきつつあるという高齢者(六十五歳以上)は皆、引退したほうがいいか、はたまた老体に鞭打って第二の人生を模索するか、鈍り始めた頭と身体でよれよれ迷っておりますぞ。


十年後、いったい私はどれだけ背筋を伸ばして歩き回り、人の話が耳に届き、たまに好きなゴルフをして、とりあえず台所に立って料理をしたり、テレビ画面に向かって、「くだらん!」と悪態をついたり、夕方になるとビールを飲みたくなったり、おいしいものを「おいしいぞ」と言いながら食べたりしていられるだろうか。


すでにけっこうな腰痛持ちである。朝、ベッドから起き上がるとき、「イテテテ」と言わずに立つことができない。洗顔の際、前屈みになって両手に水をすくってゆすごうとする、その姿勢がまた「イテテテテ」である。


すでに耳が遠い。補聴器が必要なほどではないが、頻繁に人の言葉を聞き間違える。どんな聞き間違えをしたかと、ここで気の利いた例を挙げたいところだが、とんと思い出せない。


先日、ゴルフ場で久しぶりに会った友人に、「アガワ、耳、遠くなった?」と鋭く指摘され、「そうなのよ」と応えながら、「こんな聴力でインタビューの仕事を続けていいものか?」と心中で自問し、かすかに動揺した。動揺したことは覚えている。でも、どういう聞き間違えをしたかは思い出せない。って、さっき書いたね。


だからすでに記憶力にも自信がない。耳が遠くなり、記憶力が低下して、いつまで仕事を続けられるだろう。いや、続けていいのか悪いのか。その引き際を潔く自分で定められるかどうか。それが心配だ。

幸か不幸か、組織に勤めぬ私のような商売の人間には定年がない。強制的に区切りをつけてもらう機会がない。だから、いくつになろうと意欲さえあれば仕事を続けられる。それは有り難いことと受け止めるけれど、自ら引退宣言をしないと、他人に迷惑をかけることになりかねない。


「アガワさん、言ってることもやってることもボケてきたけれど、やる気だけあるから困るよねえ。誰かが鈴をつけないと、あの人、仕事辞めないよ」なんて陰で囁かれるのも嫌だ。さりとて早々に引退して、その後やたらに長生きしてしまったら、それはそれで厄介だろう。


父は九十歳を前にして断筆した。長く続けていた連載を打ち切り、「もう書かない」と宣言した。苦渋の決断かというと、そうでもなく、案外、あっさりしたものだった。


「書けばいいのに。老人の愚痴でも世間に対する腹立ちでも、普段、ウチでさんざん吐いているのだから、そんな話題を気楽に書けば、共感してくれる読者もいると思いますけどねえ」


さりげなく説得してみたが、思いのほか、父の決心は固かった。しかし家族としてはやや心配だった。生涯のほとんどを原稿用紙に向かう時間に費やしていた父が、その生活を突如として止めてしまったら、たちまちボケるのではないか。あるいは生きる気力を失って急激に老いるのではないか。


ところが父にはそういう兆候はさして見当たらなかった。もちろん年齢なりの老いはあったが、余った時間で読書をしたり好きな麻雀に興じたりして、「旨いものを食いたい」欲と、家族の前で不機嫌になる体力は相変わらず旺盛だった。


そんな隠居生活を四年あまり続けた末、大病に罹ることも認知症状を起こすこともなく、九十四歳にして老衰で亡くなった。今思えば、父が仕事を辞めたタイミングはなかなか絶妙だったように思われる。


父の晩年がそうだったからといって、娘も首尾良くいくとはかぎらない。まして、父のように直前まで頭がしっかりしている自信はさらにない。むしろ母同様、認知症になる確率のほうがはるかに高いと思われる。ならばどんな高齢者時代を設計すればいいだろうと、ときどきそんな不安が頭をよぎるのだが、実際のところは原稿の締め切りやインタビューの準備に追われて日々をあたふたしのぎ、そしてまた今年が終わろうとしている。


知り合いの知り合いの、つまり見知らぬ男性の話だが、その人、会社を定年退職したのち、道路工事現場での交通誘導員の職に就いたという。ヘルメットをかぶり、旗や誘導棒を手に自動車の通行を整理する係のことである。その噂を耳にした友人たちが同情した。気の毒に。さぞやつらい思いをしていることだろう。ところが本人は、いたって元気に答えたそうだ。


「会社じゃ誰も自分の言うことを聞いてくれなかったが、今は俺の意のままだ。『止まれ!』と言えば車は止まる。『行け』と合図すれば発進する。こんな気持のいいことがあるものか!


ポジティブとは、もしかして、本人ちっともポジティブと自覚していない生き方のことを言うのか。自覚なきポジティブ老後はなかなか悪くない。


人生って生てるだけでまるもうけ


これから寒さを増しますのでご自愛下さい。

みなさまには、よいお年をお迎えください。

◇令和と熱中症


天皇即位。平成から令和。多くの人が皇居へ一般参賀のお祝いの列で121人が熱中症による脱水症状などを訴え、担架や車いすで運ばれて救護所で手当てを受けたとNHKニュースが報じていました。

また、昨年の猛暑の中、高齢者が熱中症で11人の方がお亡くなりになりました。

最近、特に怖く感じる熱中症。なんで熱中症の人がこんなに増えてるの?熱中症になったらどうすればいいの?

で、夏が始まる前にさっそく熱中症対策アドバイザー養成講座に行ってきました。



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https://blue-s-official.com/archives/2145


◇熱中症ってな〜に


身体の中では産熱と放熱のバランスがとれています。産熱とは身体が熱を作る働きで、放熱は身体の外に熱を逃がす働きをいいます。このバランスが崩れたとき、熱中症が起こります。

「熱中症」とは暑い環境で生じる健康障害の総称で、次のように分類されています。

(1)熱失神

皮膚血管の拡張によって血圧が低下し、脳への血流が悪くなることにより起こります。

(2)熱けいれん

大量に汗をかき、水だけを補給して血液の塩分(ナトリウム)濃度が低下した時に、足、腕、腹部の筋肉に痛みを伴ったけいれんが起こります。

(3)熱疲労

大量に汗をかき、水分の補給が追いつかないと、身体が脱水状態になり熱疲労の症状がみられます。

(4)熱射病

体温の上昇のため中枢機能に異常をきたした状態です。意識障害(応答が鈍い、言動がおかしい、意識がない)がみられたり、ショック状態になる場合もあります。

なるほど、こうやって聞くとわかりやすいですね。身体の中の熱がどんどん溜まっていっていろんな症状が起きるみたいです。特に熱中症になって死に至ることにまでなるなんて、とても恐ろしことです。


◇熱中症の対応


熱中症が疑われる時には、適切に応急処置をする必要がありますが「意識がない、もしくは意識がはっきりしていない」場合はすぐに救急車を要請しましょう。また、救急車が到着するまでの間に現場での応急処置も必要となります。

とにかく初期の判断が大事みたいです。意識があるかないかはペットボトルの水を自分で開けれて飲めるかどうかで見極めれば良いそうです。

次に涼しい場所へ移動、身体を冷却すること。とにかく熱中症になったら身体を冷やすことこれが重要なのだそうです。



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◇熱中症対策アドバイザー養成講座


10時から1225分まで2時間を超える長い講座でしたが、講師の方の優しく丁寧な話しで非常にわかりやすく理解しやすい講座でした。また、休憩時間にも参加の方々から次々と質問が飛び出して、熱中症に間するいろんな話しが聞けて非常に役立つ講座だったと思います。

ラストにテスト。テストはあまり好きではありませんが、講義の内容の整理と長期記憶に残すにはテストが一番だそうです。

講座を聞いて理解したつもりでもテストをしてみると思い違いや思い込みも結構ありました。

最後に熱中症対策アドバイザー養成講座を開催していただいたBLUES事務局、大塚製薬のスタッフの方々に素敵な講座を開催していただき心から感謝いたします。


◇たまプラーザの街


渋谷から二子玉川、溝の口を経て多摩田園都市と呼ばれる東急グループが開発したニュータウンが延々と点在する区間を抜けて終点の中央林間までの間を結ぶ「東急田園都市線」。


特にたまプラーザはアッパーミドルな世帯が住む街として、TBSのテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」の舞台となっていました。


金曜日の妻たちが放送されてから36年の月日が経過してもたまプラーザは素敵な街並みを魅せています。


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◇「たまプラーザ」の駅名はどうして名付けられたのか?


田園都市線のあざみ野とか青葉台と言う駅名はよくありそうな駅名ですが、たまプラーザという駅名はちょっと変わった名前だと思います。


ひらがなとカタカナ。


誰が名付けたんでしょうか?


何故、このような名前になったんでしょうか?


どうも不思議です。


なぜこの名前になったのか。


調べてみると、東急電鉄「開発の記録」にでていました。


発案は当時の五島昇社長。


計画段階では「元石川」が仮の駅名だったそうです。


それを五島社長が「元石川」より「たまプラーザ」に変えるよう指示したそうです。


たまは多摩をひらがなで読んだもの。


プラザはスペイン語で広場、駅前広場を中心とした街づくりを目指す同社の基本思想が投影されました。


五島社長は多摩田園都市の中心に、との意図があったようです。


元石川駅だと普通ですが、たまプラーザだとなんだか素敵なイメージが湧きますよね。


◇田園都市線の駅名


東急田園都市線の沿線の駅名は地名を参考にしつつ、地元住民の意見を集めながら決められました。


例えば青葉台や藤が丘は「名前に緑を残したい」という地元の要望を取り入れた。


藤が丘は富士山に見立てた富士塚があることにちなんだ。


たまプラーザ駅周辺にある美しが丘は、この辺りが美しい丘陵地帯だったことが由来だ。ちなみに、たまプラーザという地名はなく、駅名だけで使われています。


◇終わりに


仮名の元石川駅の名前だと現在のように発展していたか、はなはだ疑問です。


やはり、名前って重要ですね。


たまプラーザ駅だけは五島昇社長の思いが込められた駅。


名前の由来の通り田園都市線の中心の駅として、ますます発展していくのではないでしょうか。

◇早渕川と桜

散歩で早渕川を歩いている。

桜が満開。

川べりを歩くとのんびりと幸せな気分になります。

春の爽やかな風がほほにあたり気持ち良い。

ランニング姿の人ですれ違う。

みんな健康のためにウォーキングやジョギングをする人が多い。

とても穏やかな早渕川の春です。

◇石川村と荏田村の水争い

早渕川は30万年前多摩丘陵の成立とともに浸食、湧き水によってできた川で昔は蛇行し川底が岩盤であるため流れが早かったそうです。

石川村と隣の荏田村は水争いで頻繁に争っていました。

当時、八つの集落があります。

保木ほうぎ・・・・美しが丘西

荏子田えこだ・・・荏子田1~3丁目

平川ひらかわ・・・元石川町から美しが丘3丁目あたり

船頭せんどう・・・あざみ野4丁目あたり

稗田原ひえだはら・美しが丘5丁目北部

牛込うしごめ・・・美しが丘5丁目南部から新石川2丁目・

中村なかむら・・・あざみ野駅周辺から新石川2丁目

下谷しもやと・・・新石川1丁目あたり

あるとき荏田村の民が築地の土手といわれる堤防を築き石川村を水没させました。

保木は帆をあげ舟を出した。

平川は一帯が水で平になった。

船頭は舟で地区を渡した。

牛込は食物に困った人々に牛に米を積んで売り歩いた。

ほんと酷いとをするものです。

今では水で争うなんて考えられませんが、当時の農民にとってはかかせないものだっようです。


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