日本には赤いりんごと事件は良く似合う。
日本が終戦後直ぐに並木路子の「りんごの歌」1945年( 昭和20年)松竹映画「そよかぜ」の挿入歌で、主題歌。
翌年にはレコードとなり戦後の日本を爽やかな歌声が元気にさせてくれました。
日本では時代、時代に於いて「りんご」の赤い果物が話題となっているのです。
■ 林檎殺人事件
1978年( 昭和 53年 )の 8月24日、郷ひろみと樹木希林のデュエット・ソング「林檎殺人事件」が、 TBSの『ザ・ベストテン』で3週連続 1位を獲得した。
「林檎殺人事件」は、郷ひろみがレギュラー出演していたTBSのドラマ『ムー一族』の挿入歌だった。
郷とやはりレギュラー出演者だった樹木希林が、劇中で唐突に歌い出すシーンが今考えても相当にシュールな光景でした。
2人が変なサングラスをかけ、ふにゃふにゃした振り付けで歌うのだが、ドラマは別段ミステリやサスペンスものではなく、内容ともまったく無関係だった。
アア 哀しいね 哀しいね
殺人現場に林檎が落ちていた
がぶりとかじった歯形がついていた
捜査一課の腕ききたちも
鑑識課員も頭ひねってた
霧に浮かんだ真赤な林檎
謎が謎よぶ殺人事件
アア パイプくわえて探偵登場
(男女)フニフニフニフニ
フニフニフニフニ
男と女の
愛のもつれだよ
昭和の良き時代。
この年、TBS『ザ・ベストテン』はスタートし、あのアイドルグループキャンディーズは解散した。
■ りんご事件
1933年( 昭和 8年 )春の早慶戦で、早慶戦と東京六大学野球史上に残る、大事件が起こりました。
それが、「水原のリンゴ事件」です。
試合は、二転三転の好ゲームとなり、 最終的には慶応が 9-8で早稲田を破りましたが、この試合では、再三にわたり、判定を巡るトラブルが起こり、慶応の水原が審判にクレームをつける場面もありました。
この水原の態度に、腹を立てていた早稲田の応援団やファン達は、水原に対し盛んに野次や怒号を浴びせました。
そして、早稲田が8-7とリードしていた 9回表、水原が三塁の守備に就くと、当時、三塁側に陣取っていた早稲田応援団は、 水原に向かって、一斉に物を投げつけ始めたのです。
その中には、食べかけのリンゴもありました。
水原は、その食べかけのリンゴを、三塁側スタンドの方は見ずに、バックトスのような形で、三塁側スタンドへと投げ返しました。
この水原の態度はけしからんと、早稲田応援団はますますいきり立ちます。
そして、9回裏に慶応が 2点を奪い、9-8で逆転サヨナラ勝ちを収めるに及び、 早稲田応援団の怒りは頂点に達しました。
早稲田応援団は、試合終了と同時に、一斉にグラウンドへとなだれ込み、 慶応応援団が陣取る、一塁側スタンドへと殺到しました。
早稲田応援団の一人が、慶応応援団が持つ指揮棒を奪うなど、グラウンドは大混乱に陥りました。
「水原、謝れ!」
「指揮棒を返せ!」
と、両校応援団の間で、怒号が飛び交い、にらみ合いは夜まで続きました。
四谷警察署長以下240名の警官隊が出動し、両校応援部の尽力で最悪の事態は回避された。
翌日の新聞は、この事件を単にスポーツの問題ではなく、社会問題として大きく取り上げた。
その後、早稲田応援団の狼藉に対し、慶応側は態度を硬化させました。
慶応は、早稲田の六大学リーグからの除名を主張すれば、早稲田側も、水原の正式謝罪を要求するなど、早慶両校は一歩も引かず、騒動は一ヶ月以上にも及んだのです。
あわや、早慶戦中止か、という事態も危惧されましたが、騒動の責任を取り、早稲田の寺沢野球部長代理が辞任、慶応も、水原が野球部を自主退部する、という形で、双方が歩み寄り、ようやく騒動は収束、早慶戦中止という、最悪の事態は免れました。
一つの食べかけのリンゴから始まった、この大騒動は、「水原のリンゴ事件」として、その後も長く語り継がれ、六大学野球史上に残る大事件として、歴史に残っています。
■ なぜ横山エンタツと花菱アチャコの漫才は「早慶戦」なのか?
早慶戦でのあまりの熱狂ぶりに、その様子は新国劇によって舞台化された。
りんご事件の起きた翌年、昭和9( 1934)年6月 10日、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された。
野球がただの競技ではなく、社会文化の一翼を担うことになったのです。
プロ野球はまだ影も形もなく、長嶋茂雄が天覧試合でホームランを打つ30年も前の出来事である。
■ 昭和の時代はりんごの事件で初まひ終わった。
昭和の時代は幸せな時代だった。
前半には太平洋戦争と言う悲惨な戦争もあったが、いつも「りんご」が人々を救ってくれた。
『日本には赤いりんごが良く似合う』と書いたが『昭和の時代には赤いりんごが良く似合った』と言う方が正しいのだろう。