ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 横山エンタツ

日本には赤いりんごと事件は良く似合う。


日本が終戦後直ぐに並木路子の「りんごの歌」1945年( 昭和20年)松竹映画「そよかぜ」の挿入歌で、主題歌。


翌年にはレコードとなり戦後の日本を爽やかな歌声が元気にさせてくれました。


日本では時代、時代に於いて「りんご」の赤い果物が話題となっているのです。


林檎殺人事件


1978年( 昭和 53 )の 824日、郷ひろみと樹木希林のデュエット・ソング「林檎殺人事件」が、 TBSの『ザ・ベストテン』で3週連続 1位を獲得した。


「林檎殺人事件」は、郷ひろみがレギュラー出演していたTBSのドラマ『ムー一族』の挿入歌だった。


郷とやはりレギュラー出演者だった樹木希林が、劇中で唐突に歌い出すシーンが今考えても相当にシュールな光景でした。


2人が変なサングラスをかけ、ふにゃふにゃした振り付けで歌うのだが、ドラマは別段ミステリやサスペンスものではなく、内容ともまったく無関係だった。


アア 哀しいね 哀しいね

殺人現場に林檎が落ちていた

がぶりとかじった歯形がついていた

捜査一課の腕ききたちも

鑑識課員も頭ひねってた

霧に浮かんだ真赤な林檎

謎が謎よぶ殺人事件

アア パイプくわえて探偵登場

(男女)フニフニフニフニ

フニフニフニフニ

男と女の

愛のもつれだよ


昭和の良き時代。


この年、TBS『ザ・ベストテン』はスタートし、あのアイドルグループキャンディーズは解散した。


りんご事件


1933年( 昭和 8 )春の早慶戦で、早慶戦と東京六大学野球史上に残る、大事件が起こりました。


それが、「水原のリンゴ事件」です。


試合は、二転三転の好ゲームとなり、 最終的には慶応が 9-8で早稲田を破りましたが、この試合では、再三にわたり、判定を巡るトラブルが起こり、慶応の水原が審判にクレームをつける場面もありました。


この水原の態度に、腹を立てていた早稲田の応援団やファン達は、水原に対し盛んに野次や怒号を浴びせました。


そして、早稲田が8-7とリードしていた 9回表、水原が三塁の守備に就くと、当時、三塁側に陣取っていた早稲田応援団は、 水原に向かって、一斉に物を投げつけ始めたのです。

その中には、食べかけのリンゴもありました。


水原は、その食べかけのリンゴを、三塁側スタンドの方は見ずに、バックトスのような形で、三塁側スタンドへと投げ返しました。

この水原の態度はけしからんと、早稲田応援団はますますいきり立ちます。


そして、9回裏に慶応が 2点を奪い、9-8で逆転サヨナラ勝ちを収めるに及び、 早稲田応援団の怒りは頂点に達しました。


早稲田応援団は、試合終了と同時に、一斉にグラウンドへとなだれ込み、 慶応応援団が陣取る、一塁側スタンドへと殺到しました。


早稲田応援団の一人が、慶応応援団が持つ指揮棒を奪うなど、グラウンドは大混乱に陥りました。


「水原、謝れ!」


「指揮棒を返せ!」


と、両校応援団の間で、怒号が飛び交い、にらみ合いは夜まで続きました。


四谷警察署長以下240名の警官隊が出動し、両校応援部の尽力で最悪の事態は回避された。


翌日の新聞は、この事件を単にスポーツの問題ではなく、社会問題として大きく取り上げた。


その後、早稲田応援団の狼藉に対し、慶応側は態度を硬化させました。


慶応は、早稲田の六大学リーグからの除名を主張すれば、早稲田側も、水原の正式謝罪を要求するなど、早慶両校は一歩も引かず、騒動は一ヶ月以上にも及んだのです。


あわや、早慶戦中止か、という事態も危惧されましたが、騒動の責任を取り、早稲田の寺沢野球部長代理が辞任、慶応も、水原が野球部を自主退部する、という形で、双方が歩み寄り、ようやく騒動は収束、早慶戦中止という、最悪の事態は免れました。


一つの食べかけのリンゴから始まった、この大騒動は、「水原のリンゴ事件」として、その後も長く語り継がれ、六大学野球史上に残る大事件として、歴史に残っています。


なぜ横山エンタツと花菱アチャコの漫才は「早慶戦」なのか?


早慶戦でのあまりの熱狂ぶりに、その様子は新国劇によって舞台化された。


りんご事件の起きた翌年、昭和9 1934)年6 10日、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された。


野球がただの競技ではなく、社会文化の一翼を担うことになったのです。


プロ野球はまだ影も形もなく、長嶋茂雄が天覧試合でホームランを打つ30年も前の出来事である。


昭和の時代はりんごの事件で初まひ終わった。


昭和の時代は幸せな時代だった。


前半には太平洋戦争と言う悲惨な戦争もあったが、いつも「りんご」が人々を救ってくれた。


『日本には赤いりんごが良く似合う』と書いたが『昭和の時代には赤いりんごが良く似合った』と言う方が正しいのだろう。

NHK連続ドラマ「わろてんか」の寄席で行われている演芸には現代の漫才グランプリM-1 の優勝者とろサーモンのような二人でしゃべる「漫才」はまだ登場していない。




M-1グランプリ 2017』とろサーモンが優勝 ラストイヤーで 13代目王者に

https://www.oricon.co.jp/news/2101650/full/


「万才」と「漫才」の違い


昭和初期、「万才」は落語や浪曲といった伝統ある出し物の間をつなぐ色物とされていました。


内容も、歌や踊りを見せるもので、つなぎにしゃべる程度のもの、内容は下品で低俗と言われたのでした。


その万才を、全国で誰にでも理解できる大衆芸能・「漫才」に大変身させたのがエンタツ・アチャコのコンビでした。


「まんざい」の表記は「漫才」「万才」「万歳」「萬歳」の四つがあります。 


数百年の歴史がある、正月などに門付けして街を回る「三河萬歳」「尾張萬歳」などのお祝い芸には「萬歳」の字が使われており、それが明治期に、舞台芸として扱われるようになって、「万才」「万歳」の字が使われるようになります。


「万才」「万歳」は、様々な芸が含まれていましたが、大正末から昭和初期にかけては、多くは、三味線や鼓をもって歌を歌ったり、踊りを踊る音曲万才でした。


エンタツ・アチャコがそれまでつなぎだけだった、「しゃべり」だけで行うまんざいを確立する頃から、「二人で行う漫談」という意味も含め、「漫才」という新しい字が使われ始めました。


実際には大正から昭和初期にかけては、どの字も使われていました。


「しゃべくり」以前のまんざいを「万才」、二人が目指した新しい「しゃべくりまんざい」として「漫才」と表記してあります。 




横山エンタツと花菱アチャコが現代の漫才の原点でした。


会話だけで成立した笑い、さらにその中に、「ボケ」と「ツッコミ」という役割が初めて存在しました。


現代の漫才の原点です。


横山エンタツ


「今の万才は、あまりにわい雑で下品である。 


 日本中の老若男女が誰でも共感し、家族で笑える、 無邪気な笑いをとる漫才がしたい。」  


横山エンタツと花菱とアチャコの二人ははあえて会話体で漫才を始めます。


アチャコ 「よう、タッツアン」

エンタツ 「ああ、元気か?どないや」

アチャコ 「どないて、なにが?」

エンタツ 「アッチや、アッチ、アッチ・・・・」

アチャコ 「アッチねェ。コッチはエエねんけどな、アッチはさっぱりワヤでおます。アキマセン」 


有名な二人の代表作「早慶戦」では


「ボク」と「キミ」と言う言葉を使ってみたり。


アチャコ


「今までだれもやったことのないことだから、どこにもお手本はない。 


私たちは毎日が勉強だった。」


二人の漫才はラジオを通して、全国つつうらうらの家庭に届けられたのでした。


横山エンタツと花菱アチャコ二人が現代の漫才ブームの基礎を作ったのでした。





NHK連続ドラマ「わろてんか」ではキース役として大野拓朗さんが演じています。




大野拓朗さんは「とと姉ちゃん」では「青柳商店」の跡取り養子青柳清の役をしていました。


なかなか大野拓朗いい演技をしています。


NHK連続ドラマ「わろてんか」大野拓朗演じるキースにも実在のモデルがいます。


実在のモデルは横山エンタツです。




現代の漫才を作った横山エンタツ・花菱アチャコ


 昭和5年( 1930 ) 511日吉本興行部直営の演芸場である大阪玉造・三光館で、「二人漫談」の 看板をかかげて、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビがデビューした。 


これが漫才時代の幕開けであった。


コンビを組ませたのは、吉本の林正之助である。  


エンタツ・アチャコ以前の万歳という芸能は、着物姿に三味線や鼓を片手に、ご陽気ではあるが、さ てその内容はというと猥雑で、時には卑猥極まりなく、面白くはあるが低級で品がなかった。


それを支 える観客もまた、ごくごく限られた男性中心の層であった。  


エンタツ・アチャコは、サラリーマン風の洋服姿で、家庭やスポーツの話題、世相のスケッチなど庶 民の身近な話題をテンポよく、スピーディなしゃべくりだけで演じてみせた。


低級な娯楽であった万歳 を、幅広い世代が安心して無邪気に笑える芸能へと開拓したのである。  


その人気は急速に高まり、デビュー3カ月後には、吉本でも最高の演芸場であった法善寺境内の南地 花月に「インテリ萬歳」として出演している。  


エンタツ・アチャコの演目のなかでも、プロ野球出現以前に人気を極めた六大学野球のラジオ中継を 題材にとった『早慶戦』は大好評で、以後の漫才隆盛のきっかけとなった。


「きみ」「ぼく」という言葉を使い、日常的な話題を題材とし、なかでも有名な演目が『早慶戦』。


野球を知ってる者が知らない者に説明する、というネタである。


アチャコ「投げました」


エンタツ「投げました」


アチャコ「打ちました」


エンタツ「打ちました」


アチャコ「大きな当たり」


アチャコ「セカンドを回ってサード」


エンタツ「セカンドを回ってサード」


アチャコ「サードを回ってホーム」


エンタツ「サードを回ってホーム」


アチャコ「ホームを回ってレフト」


エンタツ「ホームを回ってレフト・・・なんでやねん」 


NHKラジオ放送やレコードで広く日本中に知られるところとなり、エンタツ・アチャコは全国的な人気を得ました。


後に寄席でのコンビは解消しても、喜劇映画の共演は続きました。


2人の漫才に台本作者として携わったのが秋田實です。


秋田は漫才作者としてさまざまなコンビに新作漫才の台本を提供しました。


このような気運の中、昭和8年( 1933年)に吉本興業が「漫才」という表記を始め、翌年の新橋演舞場での興行を「特選爆笑漫才大会」としました。

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