ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 桂春団治

NHK連続ドラマ「わろてんか」では最近漫才家はたくさんでているが、なんだか落語家がでてこなくなったような気がします。


そう言えば月の井団吾(波岡一喜)はどうしたんでしょう。


ちっともみかけませんが


月の井団子のモデルは伝説の落語家桂春団治です。


実は昭和9年吉本興業はマーカス・ショウを招聘し次々大成功をおさめていますが、ちょうどその年に桂春団治は亡くなっています。


伝説の落語家桂春団治の死


桂春団治も昭和9(1934)年106日に亡くなる。


明治黄金期から続く最後の落語スターがいなくなりました。


すでに吉本興業に所属する芸人では、落語家よりもはるかに漫才師が多くなっていた。


落語家から漫才師に転向していくものも絶えない。


昭和10年代に入ると、吉本の寄席は漫才がメインになっていく。


落語の出番は早い時間帯だけということが多くなり、いわゆるイロモノ扱いとなっていました。


寄席とは、漫才を聞きに行くところであって、あいまにちょこっと落語が聞けるところ、になった。


昭和9年の春団治の死後、大看板と言える落語家はほとんどいなくなりました。


「笑い」のために一生を捧げた男


桂春団治はとにかく笑いを取りにいった。


落語を聞かせるというより、笑わせることにつき進んだ。


落語では、笑いの箇所をくすぐりと呼ぶが、春団治の場合はまさにギャグと呼んだほうがお似合い。


刺激的で現代的なお笑いを入れ込んでいった。


そのギャグはいまも伝わっている。


この、とにかく笑わしたるという芸風は、その熱狂的なファンでもあった笑福亭仁鶴などを通し現代にも伝わっている。


破壊的なギャグを入れ込んだので、保守的な落語ファンには嫌われました。


ただ、時代をくだってみると、新しい流れに負けそうになっている落語に、全身をかけて勢いをつけた姿は壮絶でした。


桂春団治


「私はお客がただ笑うだけでなく、涙を流してまで笑うてくれんと頼りのうおます。


というのは笑うて笑うて、笑いの止らぬ時、お客は横腹を抑えて涙を流して苦しんでいやはります。


ここまで来て初めて私は落語家になった生甲斐を感じます」


桂春団治は笑いのために一生をかけた。


女房だとか、暖かい家庭だとかえりみることさえなかった。


死因は胃癌だった。


享年57歳。


桂春団治には葬式の費用も無く、吉本興業が葬儀を出した。


桂春団治「笑い」のためにだけ生きた人生の最後に見た夢はなんだったのでしょうか?


♬そばに私が ついてなければ

♬なにも出来ない この人やから

♬泣きはしません つらくとも

♬いつか中座の華になる

♬惚れた男の 惚れた男の

♬でっかい夢がある


実際にどう生きたかということは大した問題ではないのです。


大切なのは、どんな人生を夢見たかということだけ。


なぜって、夢はその人が死んだ後もいき続けるのですから。


by ココ・シャネル


<明日のわろてんか>120日 第91回 団吾のラジオ出演が時代を変える? 藤吉、風太の反応は

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180118-00000041-mantan-ent


NHK連続ドラマ「わろてんか」ついに団吾の史実モデル桂春団治のラジオ放送事件がドラマで放送されます。


脚本家の作るあさが来たドラなのでなんとも言えませんが、北村藤吉のモデル吉本泰三は既になくなっています。


ドラマはドラマなのでしょう。


今日はラジオ放送事件を史実ではどんな事件だったのか見てみましょう。


ラジオ放送事件


桂春団治は語る


「私はお客がただ笑うだけでなく、涙を流してまで笑うてくれんと頼りのうおます。


というのは笑うて笑うて、笑いの止らぬ時、お客は横腹を抑えて涙を流して苦しんでいやはります。


ここまで来て初めて私は落語家になった生甲斐を感じます」


こんな男の落語がつまらないはずはなかった。


いいかげんで無茶な男だが真っ直ぐで一緒懸命なのだ。


お客さんを笑わすことは一通りの苦労やおまへん。


これが泣かすほうなら訳はないのですけれど。」


と言いながら、掲出のように、際限のないほどの笑いを欲したのだ。


人気絶好調の桂春団治は無敵だった。


しかし、人気はあったがお金もなかった。


春団治は吉本興行と専属契約を結んでいたが、その規定に反して無断でラジオに出演しました。


桂春団治と言う男、お金には全く弱いのです。


ラジオ局に積まれた高額のギャラと新しいものへの好奇心から、飛びつきました。


ラジオから流れる人気落語家、桂春団治の落語にラジオを聞いているお茶の間を笑いの渦に巻き込みました。


大阪で初めて落語がラジオ放送されたのでした。


しかし、ラジオから放送される桂春団治の落語を聞いて吉本せいは怒りました。


放送が寄席への客足を減らすことを恐れ厳しく対処します。


「吉本の指定以外に於て出演したる場合は一時に借金を返済し、その上損害賠償の責めを負う」という公正証書にものをいわせ、吉本に8000円の借金のある春団治の自宅へ執達吏をやり、差し押さえを強制執行したのです。


吉本せいも後には引かない性格です。


昭和5年(193012月9日のことだった。


桂春団治のやることは無茶だと言えば無茶だった。


その無茶をしょうちでやるのが桂春団治の春団治たるところである。


しかし、落語家が裁判所より強制執行を受けるとは前代未聞である。


これにはさすがの春団治もしょげかえった。


だが一方で、話を聞きつけて取材に駆けつけた新聞社のカメラに向かっては、ここぞとばかり、自らの口の上に差し押さえの紙を貼ってポーズをとり写真におさまって見せた。


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桂春団治ここにあり。


大衆を喜ばせるためなら、過剰なまでのサービス精神を発揮して、自らを洒落のめしてみせるのでした。


桂春団治の一生一度の大勝負、吉と出るか凶とでるか?


この写真が新聞に載ると桂春団治がでかでかと大きくでています。


「おっ、桂春団治またやらかしたで」


「口に白いもの貼っとるがな」


「ほんま、おもろいやっちゃ」


世間では桂春団治のこの出来ごとで話題が盛り上がりました。


ひと目だけでも春団治を見ようという客が、次から次へと吉本の寄席につめかけ、桂春団治を出せとつめかけたのです。


吉本の寄席は客で溢れかえったのでした。


さすがの吉本せいもこれには参りました。


吉本せいはラジオで落語を放送すると寄席にはお客が押しかけるラジオの宣伝効果を知りました。


以後、彼女は今までの考えをがらりと変えてラジオを積極的に利用するようになります。


1983年( 昭和58 )都はるみと岡千秋の歌った難波の恋しぐれ


♬芸のためなら 女房も泣かす

それがどうした 文句があるか

雨の横丁 法善寺

浪花しぐれか 寄席囃子

今日も呼んでる 今日も呼んでる

ど阿呆春団治♬


当時オリコンチャートでは、発売翌月の6月にはTOP20に登場し8月にはTOP10入りを果たし、毎日のようにテレビやラジオで歌われ年末の紅白歌合戦にも都はるみと岡千秋が登場しました。


半世紀たっても演歌になって歌われた男、桂春団治のラジオ放送事件は春団治一生一度の大勝負だったのです。


NHK連続ドラマ「わろてんか」では昭和へと時代が移り、ラジオ放送が既に始まっています。


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 人気落語家、団吾は突然にラジオ放送に出演したいと言い出します。


風太は落語家はラジオ番組に出演するべきではないと団吾を説得しますが、団吾はラジオ番組への出演を宣言します。


風太は団吾のラジオ番組出演を止めようとするものの、風太の動きを察した団吾は行方をくらまし、風太は団吾を見つけることができません。


どうなることやら。


ラジオ放送が始まったのは日本では大正時代の後半のことでした。


ラジオ放送始まる


JOAKJOAK、こちらは東京放送局であります」。


大正14322日、この第一 で、日本のラジオ放送の歴史がはじま りました。


アメリカで世界初の放送局が設立されてから、わずか5年後のことです。


日本初のラジオ放送を届けたのは「東 京放送局」。


現在のNHK、日本放送協会の前身です。当初は、芝浦の東京高等工芸学校内の仮スタジオから、マイク1 で放送を行っていたそうです。


同年712日に愛宕山の本放送局が始動します。


ラジオの放送拠点に愛宕山が選ばれた大きな理由は海抜約26メートル の高さでした。


放送は出力が弱かったため、高い場所から少しでも遠くに電波を届けたいという関係者たちの切な いが込められていたのです。


当時の職員や番組出演者は放送局のことを親しみをこめて「ヤマ」と呼んでいたそうで す。


この年、東京に続き大阪と名古屋でも放送局が開局して、本格的にラジオの時代がはじまります。


東京放送局では開局当初からさまざまな番組が放送されていました。


当時 の番組表によると、ニュース、天気予報、音楽演奏、落語、それに料理や英 語などの講座まであったようです。


東京のラジオ放送ではすでに落語の放送は開始されていました。


大阪でも落語をラジオから放送したいと言う要望が多く、白羽の矢が当時の人気落語家、桂春団治にたてられたようです。


しかし、大阪の落語は吉本興業が握っており、吉本はラジオで落語や浪曲などの番組が始まると、大衆はそれで満足し、寄席に足を運ばなくなるのではという心配があり、落語家のラジオ出演を禁止していました。


禁止されればラジオ放送に出演したくなるのがスカタン桂春団治。


この人には全く一般常識は通用しません。


芸のため人気のためならなんでもやるのが桂春団治と言う人物なのです。


高座を素でゆく桂春団治の放送事件

http://keijidaz.blog.jp/archives/73969960.html


NHK連続ドラマ「わろてんか」では放送事件はどのように描かれるのでしょうか?


なんだか楽しみです。


1983年( 昭和58年 )都はるみと岡千秋の歌った難波の恋しぐれ

♬芸のためなら 女房も泣かす
それがどうした 文句があるか
雨の横丁 法善寺
浪花しぐれか 寄席囃子
今日も呼んでる 今日も呼んでる
ど阿呆春団治♬

この歌を知ってますか?

当時オリコンチャートでは、発売翌月の6月にはTOP20に登場し8月にはTOP10入りを果たし、毎日のようにテレビやラジオで歌われ年末の紅白歌合戦にも都はるみと岡千秋が登場しました。

半世紀たっても演歌になって歌われた男こそがNHK連続ドラマ「わろてんか」に登場している落語家、月の井団吾(波岡一喜)のモデル桂春団治なのです。

■ 桂春団治の破天荒な生き方

桂春団治は借金は作るわ、芸者と駆け落ちするわ、道頓堀川にダイビングするわとにかくむちゃくちゃな人物です。

子供も奥さんもいるのに別れて後家と結婚してしまい、後家殺しの春団治とも呼ばれています。

なかでも新聞にまで登場して世間を騒がせたのが桂春團治の伝説のエピソード「ラジオ無断出演事件」でした。

■ ラジオ無断出演事件

大正14年(1925年)に日本でラジオ放送が開始されると、やがて吉本せいはラジオ放送を寄席経営の大きな敵と考え、吉本所属芸人のラジオ出演を禁止しています。

昭和5年(1930年)、この禁を春團治が豪快に破ってしまうのです。春團治はラジオ局との間に出演料半年間前借りの密約を結んでいたともされます。

JOBK(現在のNHK大阪)と秘密裏に交渉を重ねた春團治は、大阪ではなく京都のスタジオから放送を行うなどの先手を打った上で(しかもスタジオに施錠をするなど徹底的な下準備)、ラジオ番組に生出演。そこで得意ネタ(寄合酒)を一席演じてしまうのです。

これに怒ったせいは、すぐさま春團治の家財道具一式を差し押さえるように社員に指示。放送を終えて春團治が帰宅すると、すべての家具には差し押さえの札が貼られていたのでした(当時の春團治は吉本に対し多くの借金を残していた)。

しかし、さすがは伝説の芸人・春團治。

翌朝の新聞には、差し押さえ札を自らの口に貼った春團治の写真が大きく掲載され、「この口があったら、なんぼでもしゃべりまっせ!」とアピール(自らの口が一番差し押さえの価値があると言わんばかり)。

人々の笑いを誘っています。

新聞に載った本人の写真です。

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やることなすことほんと無茶苦茶です。

こんな人物がよくぞいたものだと思ってしまいます。

しかし、これ以上の無茶な人物が日本にはいました。

■ 最強の無茶な人物

NHK連続ドラマ「わろてんか」風太( 濱田岳 )の史実モデルは林正之助です。

林正之助は吉本せいの実の弟で、吉本興業をせいとともに作り上げた人物です。

林正之助が以前に最も無茶な男のことを語っていました。

吉本興業の林正之助会長が、伝説の破滅型芸人・初代 桂春團治さんと、やすしさんのどちらが無茶だったかと問われたことがあります。

「そら、やすしや!春團治は空を飛ぶようなことはなかった」

と答えられたそうですが、まさに言いえて妙、さすが笑いを商いにする会社のトップだけのことはあるなと感心しました。

最強の無茶な人物は横山やすしだった。

数多くの芸人さんを見てこられ、皆から「ライオン」と恐れられてきた会長が、やすしさんの才能を評価されていた証拠です。


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■ 横山やすしとセスナのエピソードを島田洋七が語る

横山やすしは、「7回逮捕されてる」が、島田洋七がもっとも愛する芸人。 

特に印象深いのは、やすしがセスナを購入したときだ。

「『明日何してんねん』言うから、『暇です』言うたら、「飛行機乗りに来い!』って。

翌日、大阪の八尾空港いうとこに行って、個人で買ったセスナに乗せてもらった。

『忙しいなか、よく免許を取りましたね』言うたら、『免許? そんなもんあるかいな!』て(笑)」

 セスナは当時で8,000万円。だが、やすしは800万円しか払っていなかったため、業者は、完済するまで乗らせまいと、プロペラの片方をへし折った。

それでもやすしは、同じ方向にだけ旋回するという手段で運転を続け、あげくに、もう片方も奪われると、エンジン音だけ楽しんだ。

世の中にはほんと無茶苦茶な人物がいたものです。

でも、吉本興業はこんな無茶苦茶な桂春団治や横山やすしがいたからこそ大きくなったんです。

最近はこんな人物の話は全く聞きません。

真面目な人物だけの世の中になったのでしょうか?

世の中真面目なだけでは面白くないですよね。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では風鳥亭に人気落語界、月の井団吾(波岡一喜)がやって来ました。




団吾は、空席が目立つ寄席に大勢に観客を呼び込むと、前座で客たちを大いにわかせます。


月の井団子のモデルは桂春団治です。


桂春団治は上方落語界のスーパースター的存在で爆笑王としても有名でした。


春団治の落語は常に笑いをとることに終始し、彼が高座に上がると客席は爆笑の渦に巻き込まこれたそうです。


桂春団治の落語はその当時の落語家と何が違ったのでしょうか。


そんなに同じ落語で違うんでしょうか。




 ■ 落語家桂春団治はなぜ爆笑王とり呼ばれたのか?


春団治の落語は漫画風模写とナンセンスの極致であったそうです。


その世界を、決して音域の 広くない「大阪声」といわれる太いダミ声を駆使し、テンポはの速い語り口で表現した。  


「ベリバリ、ボリ」「カラカッチ、カッチ」などの劇画のような擬音を使って臨場感を持たせた。


「こんにちは」「まあ、こっち入 らんか」と演じる落語の冒頭を「さあ、こっち入らんか」「お宅でやすか ?」と聞き返した。


『阿弥陀池』という演目では「体(たい)をかわした」の「たい」というひと言を導きだすために、「西ノ宮やない」「戎さんやない」「魚釣り竿やない」と言いながら戎の持つ「鯛(たい)」までもってゆくといった 数々のバカバカしい演出を創作し笑いの渦を作った。


それらを語りのリズムや言葉の調子を急に変速したりしながら言葉のもつ音そのもののおかしさによって観客の五感に訴える高度な技術で披露した。


笑いは決して論理ではない。


まったく思いも及ばざるところに哄笑爆笑の爆発点を発見し、遮二無二、その一点を掘り下げ ていった大天才だった。


春団治の落語は決して受けるがためのムチャクチャな演出ではなく、その芸は、現在に伝わる上方落 語の爆笑演出を集成した祖であった。


現在では、歴史的に評価される初代春団治ではあるが、彼の在世中は、邪道― 正統落語を破壊した 張本人であるとの批判が強かった。


しかしその先輩落語家たちが一様に言ったことは、春団治は、少なくとも正統派の落語を 尊重していたということである。


彼は充分に本当の噺の何たるかを知った上での異端であったと言 うのである。  


桂春団治が後世に与えた影響


 初代春団治の芸が、後輩に与えた影響は絶大であった。


落語のみならず、新興の演芸・しゃべくり漫 才にも春団治の芸脈を見てとることが出来る。  


花菱アチャコとコンビを組み、しゃべくり漫才を創始した横山エンタツは、春団治の〈斬新なポンチ 絵風の手法〉といわれる独特の言葉の調子や間、音に強い影響を受けたように見受けられる。


現にエン タツは春団治の落語に学ぶところ大であったと告白している。  


エンタツ・アチャコの代表作『早慶戦』は、当時、有名であったNHK・松内則三アナウンサーのス ポーツ実況のパロディであるが、春団治はそれ以前にも同じ実況のパロディで落語を演じている。


『早慶戦』への直接の影響は分からぬが、これは面白いエピソードである。


 エンタツ漫才の後継者である中田ダイマル・ラケットのダイマルも、春団治芸に深く心酔し、その話 芸を見事に自身の漫才の調子に採り入れている。


また、漫才作者の秋田實でさえも、学生時代、親友で のちに作家となる藤沢桓夫、長沖一らと共に春団治の高座を追いかけ、彼の得意のかくし芸は春団治の 落語であった。  


春団治の芸は、当然、戦後の上方落語界にも大きく影響を与えた。


上方落語四天王の年長者であり牽引者の、松鶴、米朝にである。


六代目松鶴が亡くなった際、米朝は「あの春団治という人とですな、(松鶴は)まあ子どもにしろ『おっちゃん』てなことを言うて、じかに知ってた噺家の最後でもありま す」とこの時にことさら強調している。  


その米朝も昭和八年、小学二年生の時に初めて大阪・南地花月に行った際、春団治の高座に接した。  


「ものごとをアバウトに出来ない、ちゃあちゃん(米朝の愛称)」と門下生にいわれる米朝でも、幼すぎ てはっきりとした記憶はないそうだが、その時に同行した叔母から「あんたは初代中村鴈治郎も初代桂 春団治も見聞きしているはずだ」といわれたという話をのちに披露している。  


要は戦後の上方落語復興の立役者二人がともに、初代春団治の空気に触れて繫がっているという事実 が、上方落語史を考える上で大切なことなのである。  


そしてその松鶴、米朝の門下である笑福亭仁鶴、桂枝雀の二人は、初代春団治の影響を強烈に受け、 やがてそれぞれの爆笑落語の世界を創ってゆくことになる。  


その初代桂春団治が死んで、大阪は名実ともに漫才の時代となってゆく―


笑いとは何であろうか?


昭和の爆笑王と言われた林家三平の落語もそうだった。


好きです、好きです。好きです、好きです、ヨシ子さ~ん


林家三平がヨシ子さ~んと言うたびごとに観客は大爆笑したものでした。


なんで面白かったんだろう。


ただヨシ子さ~んと言っているだけなんですが。


林家三平の独特の言葉の調子や間、は発する音が観客に笑いの渦を作っていたのでした。


林家三平も哄笑爆笑の爆発点を発見し、遮二無二、その一点を掘り下げ ていった昭和の爆笑王だったのです。


桂春団治の芸が昭和の林家三平に受け継がれていたと思っても良いのだと思います。


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