ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:あさが来た > 平塚らいてう

『あさが来た』NHK連続ドラマに平塚明( 大島優子 )こと平塚らいてうが登場した。



なぜ、『あさが来た』NHK連続ドラマに平塚らいてうなのか?







主人公あさと性格も育った環境も違うし、史実も広岡浅子と平塚らいてうが直接話しをしたと言うこともないようなのだが…。



平塚らいては裕福な家庭に育ち日本女子大学に学んでいながら心中未遂事件を起こしたかと思うと女性雑誌『青踏』を発刊してみたりとスキャンダラスな女性にみえます。



平塚らいてうただのスキャンダラスなだけの女性ではないのです。







心中未遂事件?



愛する二人が家族に反対されたて心中を試みたと思うのが普通なのですが、どうもそう言うことでは全くないようです。



★平塚らいてうはどんな女性なのか?



平塚明( 平塚らいてう )は1908年(明治41年)に森田草平と、栃木県塩原で心中未遂事件を起こします。



3月21日、雪のある塩原温泉を目指して汽車に乗ります。明子は出発前に遺書を書き残しています。



「われは決して恋のため人のために死するものに非(あら)ず、自己を貫かんがためなり、自己の体系(システム)を全うせむためなり、孤独の旅路なり」



書いてありました。



22歳になった明と27歳になった森田。



森田は愛のための心中を覚悟したけれど、明にとっては、命を賭けた自我完結の実験に過ぎず、ふたりが統合することはありませんでした。



ふたりがこれから死のうというのに、この世での最後の肉体的な結合もなく、あくまで知的に振る舞う明の魔的なまでに肥大した精神のまえで、彼はおもいを遂げることもできなかったのです。



そしてふたりが塩原温泉に宿をとった3月22日、雪が降って寒い夕方でしたが、森田は明のからだを求めますが、彼女はふたたび拒絶します。



翌日、塩原湯本まで車でいき、そこから会津方面の向かって雪の山道を歩きます。夕暮れがせまり、森田は、明を抱き寄せ、懇願するようにいいます。



「私への愛のために死ぬ、そういってください」



明はこれにはこたえず、もとより明は、自分以外の人のために死ぬことはできない、そのように、深くこころに決めていました。



森田は気づきます。



明は自分の死の劇化を望んでいるにすぎないのだと。



死への漠然としたあこがれを、より確かなものにするために、自分を道連れにしているに過ぎない。



森田は、明子が持ち歩いている黒革の懐剣を取り出すと、彼は谷間にぽーんと投げ捨てます。



「私は生きる。私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」



といって、明の瞳を見つめます。



彼の懐にはピストルがありましたが、それを使う気にはなれませんでした。
夜になり、ふたりは抱き合って雪の上で眠ります。



翌日、ふたりが宿にもどると、ふたりの共通の友人生田長江がきていました。


明が何通か、手紙を出していたので、心配してやってきたのです。



その日、宿を引き払って長江とともに東京へ舞い戻った森田は、師である夏目漱石の家で居候として過ごすことになります。

 

森田は事件の顛末を語りはじめます。



彼の話によれば、ふたりが恋愛以上のものを求め、人格と人格の接触による、霊と霊の結合を期待していたのだといいます。


なんだか、ロマンチックな話をします。


漱石はいいます。



「ばかなことをいうものではない。男と女が人格の接触によって霊と霊の結合を求めるのに、恋愛をおいて道があるものか! ……女も、そうまじめだとは思わないね。やっぱり遊んでいたんだよ。ぼくから見れば、いうことなすこと、みな思わせぶりだな。それが女だよ。女性の中の最も女性的なものだね」



夏目漱石は、明のことを「アンコンシャス・ヒポクリット」と評します。


彼女の場合、自我が強烈で、人格のはるか上にあって、自我というものが広大無辺なものに拡大されていて、それが森田を引きまわしてしまった。



漱石は、それを「Unconscious Hypocrite(無意識の偽善)」というのだと説明しています。



漱石の忠告によって、この心中未遂事件のあらましをもとにして、漱石の推薦で、翌年「煤煙」という小説を朝日新聞に連載し、これが森田草平の文壇デビューとなります。



漱石にも「三四郎」という作品があり、そこに登場する里見美禰子という女性のモデルとして、平塚らいてうが描かれています。



平塚らいてうと言う女性、理解するのが相当難しい女性みたいです。



夏目漱石も誰も出会ったことがない女性『新しい女』の誕生なのでしょう。






『あさが来た』NHK連続ドラマ主人公のあさの娘千代にめたあかちゃんが生まれ、あさも新次郎もおじいちゃんおばあちゃんになってしまいました。


孫ってかわいいものですよね、あさも新次郎も孫にメロメロです。






あさと千代も母と子、あれだけ向き合って対立してたのに、いつの間にか仲の良い親子になってしまいました。


不思議なものです。







日の出女子大学( 日本女子大学 )にも新しい人物、平塚明( 平塚らいてう )女優大島優子が登場しました。


なにやらあさ( 広岡浅子 )を批判します。


平塚らいてうと広岡浅子は対立しそうです。







平塚らいてうの性格も千代と同じ母親や父親の反発から生まれたもののようです。


★平塚らいてうの育った環境


父、平塚定二郎は明治憲法の作成にも協力した会計監査院の官僚。


母のつやは夫の勧めで洋装で女学校に通学。


小学生の頃に引っ越した家には、シャンデリア、裸婦の絵画、洋書の棚、テーブルと椅子の生活でした。


1890(明治23)年に教育勅語が発布、日清戦争で世の中が変わりつつあった頃、平塚家の内情も様変わりする。


裸婦の絵画が教育勅語の額に変わる。


テーブルや椅子も片付けられ、洋装にしていた母は、裾を引く着物姿にかわっていった。


もちろん学校に行くことはなくなり、良妻賢母よろしく家事をする。


政府高官の父は、明治政府の命令に順応して、左右に両極端に突っ走る。


平塚らいてうはお嬢様として育てられながらも時代や社会に融合して生きる両親の生き方に反発します。


何故社会に融合して生きるのか?


平塚らいてうは自分の考え、自分の生き方を自分で決められない両親を批判します。


日本女子大学と言う日本の最高の女子教育を受けさせてもらいながらも、社会にも学校にも反発していきます。


女子大学をつくるから男子大学が女子の入学を許可しないのだと…。


明治時代は男性がつくりあげた男社会であれば全てに反発するのもいたしかたないことかも知れません。


広岡浅子や成瀬仁蔵から見ると平塚らいてうは子供らしい行為としか思えません。


社会に生きる以上、社会に融合して生きざるを得ない。


★平塚らいてうは夏目漱石の門下生森田草平と心中未遂事件を起こします。


塩原事件です。



「東京朝日新聞」は「紳士淑女の情死未遂」



「情夫は文学士・小説家、情婦は女子大卒業生」



「万朝報」は「いやはや呆れ返つた禅学令嬢といふべし」と嘲笑し



「蜜の如き恋学の研究中なりしこそあさましき限りなり」とからかった。



平塚らいてうは


「私がやったことは、曾てない大事業である。この経験は生涯私の所有である



「今回私のいたしましたことは何処迄も私の所有である。他人の所有を許さない」


と言います。



平塚らいてうは男性に従って心中未遂事件をおこしたのではない。



自分がやった行為なのだから自分で責任を取る。



自分の生き方は自分が決め責任を取る。



これが「新しい女」だと言うのです。



★平塚らいてうは「新しい女」を1913(大正2)年『青鞜』1月号紙面にて宣言します。



新しい女は「昨日」に生きない。



新しい女は最早しいたげられる旧い女の歩んだ道を黙々としてはた唯々として歩むに堪へない。



新しい女は男の利己心の為に無智にされ奴隷にされ、肉塊にされた旧い女の生活に満足しない。



新しい女は男の便益のために造られた
旧き道徳、法律を破壊しやうと願っている。



けれど旧い女の頭に盗り付いた憑いた色々の幽霊は執拗に新しい女を追ひかけてくる。


「今日」が空虚であるときそこに「昨日」が侵入してくる。


新しい女は日々に色々な幽霊と戦ってゐる。



油断の刹那「新しい女」も旧い女である。


自分は新しい女である太陽である。


唯一人である。


少なくともさうありたいと日々に願ひ
日々に努めている。


今では、女性は自分のことは自分で決めていますので、『新しい女』とは現在に於いては普通になってしまいました。


しかし、明治時代では女性は進学も結婚も親によって決められ、将来も自分で決めることは出来なかった。


また、結婚してもご主人に尽くす良妻賢母であらねばななかったのです。


この時代に自分のことは自分で決めて実行する。『自己システムの完結』を主張した平塚らいてうは社会の異端児と呼ばれてもいたしかたない存在でした。




明治44年 ( 1911年) 9月女性雑誌『青踏』は平塚明(はる)の手で産声を上げた。

平塚明のペンネームが『平塚らいてう』である。



『青踏』創刊号より






★平塚らいてう






冒頭は平塚らいてうの次の文で始まった。


「 元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である。


さて、ここに『青踏』は産声を上げた。


現代の日本の女性の頭脳と手によって始めてできた『青踏』は産声を上げた。


女性のなすことは今はただ嘲りの笑いを招くばかりである。


私はよく知っている、嘲りの笑いの下に隠されたあるものを。


そして私は少しも恐れない。


私は日本にただ一つの女子大学があるばかりに男子大学は容易に女性の前に門戸を開く寛大さを示さない現状を悲しむ。


私どもは日出ずる国の東の水晶の山の上に目映( まば )ゆい黄金の大円宮殿を営もうとするものだ。


女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を選ぶことを忘れてはならない。」




★与謝野晶子






巻頭は与謝野晶子



『そぞろこと』



山の動く日来( きた )る。


かく伝えども人われを進ぜず。


山は姑( しばら )く眠りしのみ。


その昔に於いて


山は皆火に燃えて動きしものを。


されど、そは信ぜずともよし。


人よ、ああ誰これを信ぜよ。


すべて眠りし女( おなげ )今ぞ目覚めて動くなる。


一人称にて物書かばや。


われは、われは。


『青踏』の創刊号、初めから女の主張を展開して燃えています。


読んでた女性たちもワクワクしたでしょうね。


平塚らいてうと与謝野晶子、今読んでも面白い。続きが読みたくなります。


女性文芸雑誌『青踏』は大正5年( 1916年 )2月に自然廃刊になります。


通巻52号、約5年間のわりと短い期間でした。









平塚らいてうは「私は日本にただ一つの女子大学があるばかりに男子大学は容易に女性の前に門戸を開く寛大さを示さない現状を悲しむ。」と述べています。



広岡浅子がこれからの女性は学問が必要であると思い創立した日本女子大学を批判するようなことも書いてます。



平塚らいてうの言う通り、日本の大学が女性を入れれば済む話しなんですが、現実はそうはいかない。



広岡浅子も平塚らいてうも二人の目指すところは女性の地位の向上なのでしょうが…どうも二人のバトルが始まるようです。



『あさが来た』広岡浅子( 波瑠 )と平塚らいてう( 大島優子 )二人のバトルはどうなるのでしょうか?



なんだか楽しみです。




高校生の時に読んだ詩


今でも忘れない詩がある。








高村光太郎の「智恵子抄」の中の「あどけはい話し」である。




「あどけない話」



智恵子は東京に空が無いという



ほんとの空が見たいという



私は驚いて空を見る



桜若葉の間に在るのは



切っても切れない



むかしなじみのきれいな空だ



どんよりけむる地平のぼかしは



うすもも色の朝のしめりだ



智恵子は遠くを見ながら言う



阿多多羅山の山の上に



毎日出ている青い空が



智恵子のほんとの空だという



あどけない空の話である。










高村光太郎は語る。



「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た。」



1931年頃から智恵子は実家の破産などもあって精神を病み始め(統合失調症)、睡眠薬で服毒自殺を図る。



未遂に終わったものの症状は進行し、1938年10月5日、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため52歳で旅立つ。



1941年(58歳)、他界から3年後に光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。 



なんとも素敵な話しである。



二人の光景が目に浮かぶような美しい詩だ。









智恵子ってどんな人だったんだろうふと思う。



★『あさが来た』NHK連続ドラマで平塚らいてうを調べていると智恵子のことが書いてあった。




平塚らいてうと同い年で同じく日本女子大学に入学していた。




長沼智恵子(のちに高村光太郎と結婚)とらいてうは明治19年生まれの同年であるが、智恵子はらいてうの一期後輩にあたる。




らいてうと智恵子は、家政科の講義にはあまり熱心でなく、テニスコートで、毎日球を打ち合ったという。




「らいてう自伝」




『 この長沼さんは、後に高村光太郎夫人となり、「智恵子抄」で名を知られた人ですが、下ばかり見ていて、ひとの顔をまともに見ることが出来ず、言葉もはっきりしないような内気なこのひとが、ネットすれすれの強い球を、矢つぎ早やに打ちこんでくるのには悩まされました。もちろんサーブもすごいものでした。一体この人のどこからあんな力が出るのだろうと不思議でなりませんでしたが、わたくしも無口、あちらも無口なので、一度も話し合うようなこともなく、けっきょく、女子大では、テニスコートの中だけのつきあいに終わりました。』




智恵子って平塚らいてうとテニスをしていたんですね。




二人とも無口で口をきかなかったとは何だか滑稽です。




智恵子抄の智恵子さん日本女子大で元気にテニスをしてたんだなと知っただけで、なんだか少し嬉しくなりました。




あさの『たわいもない話』です。





1911年平塚らいてうは日本で最初の女流文芸同人誌『青踏』を創刊。



『青踏』の表紙の絵は高村光太郎の妻、高村智恵子です。









『青踏』の冒頭で次のように語りかけます。



『元始女性は太陽だった。



 真正の人であつた。



今、女性は月である。



他に依つて生き、他の光によつて輝く



病人のやうな蒼白い顔の月である』



ショッキングな文章です。



女性は自立する太陽なのです。



一個の人格です。



いまや、社会に束縛され、男性に束縛され輝きを失っている。



女性よ権利を取り戻せ。



『女性解放の宣言』です。



日本の女性解放運動のスタートだったのです。









★平塚らいてうはどんな女性だったのか



平塚らいてう、本名は平塚明(はる)。



父 は和歌山(紀州)藩士から明治新政府の会計検査官になった人物。



母は田安家の医師の娘である。



田安家は吉宗が次男宗武に与えた家です。



平塚らいてうは紀州徳川家家来の血筋でした。



成瀬仁蔵が設立した日本女子大学にも入学しています。



平塚らいてうはいいところのお嬢様だったんです。







★平塚らいてうは夏目漱石の門下生、森田草平と心中する。有名な塩原事件です。





いいところのお嬢様ゆえか、世間の枠からはずれていろんなことをやってしまいます。



心中は未遂に終わりますが、その後平塚らいてうは次のように語ります。



「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり」



平塚らいてう、考え方が飛び過ぎていて一般人には理解できません。



★平塚らいてうは夏目漱石『三四郎』小説の里見美禰子のモデルである。



夏目漱石は小説『三四郎』に平塚らいてうをモデルにしています。



里見 美禰子(みねこ)です。



自由放任主義で育った都会の女性。三四郎を翻弄する。まぶたは二重。英語が得意。亡き長兄が広田萇と懇意であった。本郷区真砂町に住む。



小説の中で美禰子は三四郎に話します。



「迷子」


女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。


三四郎は答えなかった。



「迷子の英訳を知っていらしって」



三四郎は知るとも、知らぬともいい得ぬほどに、この問を予期していなかった。



「教えて上げましょうか」



「ええ」



「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」



夏目漱石は平塚らいてうの中に知的で自由奔放に生きる『新しい女性』を見つけたのではないでのでしょうか?



ただ、『新しい女性』にとっては明治時代は迷える子でしかなかった…。




★発起人の一人が漱石門下の女流作家物集和子であった。



『青鞜』を発行する青鞜社はその発起人のひとりに名を連ねるたのが漱石門下の女流作家物集和子(もづめ・かずこ)です。




『青踏』も物集家に集まって行われていました。



ただ、平塚らいてうは自由奔放ゆえに、いろんな人から嫌われてしまいます。




女性の権利を訴えるものの子育てと両立させる与謝野晶子女史に嫌われました。




婦人教育に人生をかけた津田梅子女史からも疎まれていました。




創刊から1年半、姦通を扱った小説を掲載したことで発禁処分になります。




平塚らいてうは自由奔放に生きますが、自由奔放ゆえにあちこちと衝突するしかなかったのです。




物見和子も父親から平塚らいてうとの付き合いを禁じられてしまいます。




★平塚らいてうにとっては



平塚らいてうは自分の思うように自由奔放に行動しますが、自分の思うように生きようとすればするほど社会や世の中と衝突してしまいます。




平塚らいてうにとって社会に嫌われようが世間に嫌われようが、そんなことはどうでも良かったようです。



『わが生涯のシステムを貫徹す。』



自分の意思によって人生を決めること



このことに拘り



そしてそのように生きた。



それが平塚らいてうなのです。





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