ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:あさが来た > 福沢諭吉

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「あさが来た」NHK連続ドラマの武田鉄也演じる福沢諭吉の食生活が面白い。現代の人と同じに朝食はパンとミルク、カフェオレを食べていたようだ。全く私たち現代人とかわらない生活をしていたようである。







福沢諭吉は1870(明治3)年、発疹チフスの病気になって一時は危篤状態に陥ったたが、医師の勧めで毎日、毎日牛乳を飲んで無事に快復している。


ここから牛乳好きになったようだ。


その後、牛乳を取り寄せていた築地牛馬会社の求めに応じて、その効用を社会に広める文章を記している。


牛乳と濃く煎じたコーヒーを混ぜて飲むと「味甚だ香し」と大いに牛乳を宣伝した。


牛乳と濃く煎じたコーヒーを混ぜたとあるから、日本でもっとも早い時期に紹介された「カフェオレ」である。


明治20年代後半における福澤家の朝食メニューを見ると、パンにバター、カフェオレもしくはミルクティーという日も見られる。


あるいはパンに半熟卵を付け合わせて食することもあった。


全く現代と変わらない朝食なんである。



福沢諭吉は1893(明治26)年、創刊した新聞『時事新報』に、おそらく新聞史上初となる料理記事「何にしようねがスタートさせた。



毎日の献立に悩む主婦に向けた実用記事で、連載中は読者から大好評を博した。



紹介される献立は旬の素材を生かした和食が中心だったが、その中に、牡蠣フライ、トルコライス、スープ(ソップ)、なのやサラダなどの洋風メニューがさりげなく盛り込まれていた。
   


福沢諭吉先生、やっていることが現代人とかわらないのです。なんだか現代人がタイムスリップして福沢諭吉になったのではないかと疑いたくなりますね。



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「あさが来た」NHK連続ドラマの福沢諭吉先生は大のお酒好きである。福沢諭吉先生は日本酒よりもビールが大好きでビール党でした。







福沢諭吉の「西洋衣食住」と言う本に日本人にビールを飲むよう紹介しています。


「『ビール』と云ふ酒あり。これは麦酒にて、其味至って苦けれど、胸隔を開く為に妙なり。亦人々の性分により其苦き味を賞翫(しょうがん)して飲むものも多し。(ビールという酒がある。これは麦の酒でその味は至って苦いけれど、胸の内を開くのに妙なるものだ。またその苦い味を楽しんで飲む人も多い)」


ただ、ビールを飲むのにも明治時代は高価でした。そしてもう一つ欠点がありました。ビールのふたが開きにくいことでした。


日本にビールが入ったのは幕末のことですが、そのころの舶来ビールには、コルク栓が付けられていました。


今のワインと同じコルク栓なんです。


明治期もコルク栓のビールが一般的だったようですが、瓶に栓をするのに時間がかかった上に、開けるのも難しく、開けた瞬間に泡を吹いて座敷を濡らしてしまったり、客の着物を汚してしまったりしたことも多かったようです。


また、無理にコルク栓を抜こうとして、瓶の口が割れてしまい、大騒ぎになったといった記録もあります。


結構、ビールの栓を開けるのがたいへんだったみたいです。


ビールのふたが王冠になるのはかなり後のことになります。


現在のビールの王冠は1892年 ( 明治25年 )2月2日にアメリカの発明家ウィリアム・ペインター( イギリス生まれアメリカ人 ) により「BOTTLE-SEALING DEVICE」としてパテント登録されました。




ビールの王冠は名のとおり、蓋をひっくり返してギザギザしているところが、王様の王冠に似ているので、王冠と呼ばれています。英語でも瓶ビールの蓋は「Crown」王冠です。


ビールの王冠はすぐに普及しませんでした。日本の場合、製びん技術が未熟で、手吹き製の瓶が長く使われており、びんの大きさや形が不揃いなので、王冠は不向きだったからです。


日本における王冠栓の使用は、1900年 ( 明治33年 )東京麦酒が使用したのが最初とされ、同年の新聞広告に王冠栓を栓抜きで開ける広告を掲載しました。







「王冠コルクは抜くに困難なく、御婦人子供衆も容易く取扱ふことを得べし。王冠コルクは體裁美麗且つ高尚なるを以て御進物として尤も適當なり」


「英国倫敦に於て發明せられた専賣特許王冠コルクを使用せん」ともあります。


この広告は、当時、いかにコルク栓を抜くのに人々が苦心したかを反映しています。


ビールのふたが王冠になることによって誰でもどこででも簡単にビールが飲めるようになり、ビールは日本全国で飲まれるようになります。


ビールのふたにも、いろんな歴史があるんですね。






ちょっと、ビールの王冠をよく見て下さい。王冠にギザギザがついてますよね。


何か所ギザギザがありますか?


21か所です。


このギザギザが21か所よりも多くても少なくてもビールのふたがきちんと塞がらないそうです。


ほんと良く出来てるもんですね。





明治は激動の時代、急激な改革のためにある日突然に12月 が消えてしまいます。


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嘘のような、本当の話です。


明治5年。世界は既にグレゴリ暦でしたので明治政府は旧暦より新暦に改暦したいと考えていました。


新暦はグレゴリ歴 ( 太陽歴 )です。4年に1度、閏年の2月に1日加算し調整します。


旧暦は天保暦 ( 太陰太陽暦 ) です。閏月は19年に7回の割合で、閏年に1ヶ月加算し調整します。


当時、明治政府は財政難で困っていました。


翌年は明治6年は、旧暦によれば閏年、1年が13ヶ月でした。


公務員の給料を13回支払わなければならず、いっそ新暦を採用すればその心配もなくなる。


その上、明治5年の12月も2日しかないので支払はなくて良いのではないか。


明治政府は改暦をあっと言う間に決定。ほとんど告知されないまま実行されました。


明治5年11月9日に改暦詔書を出し、旧暦から新暦に改暦をしたのです。


なんと、明治5年は12月2日で終わり、翌日から明治6年1月1日が新暦で始まってしまいます。


ある日突然、12月が消えてしまったのです。


これには、さすがに当時の人々も驚いたようです。


何も知らされないうちに、師走も大晦日もなくなったのですから、世の中は大混乱です。


あさも「びっくりぽんや」と言ったとか。(笑)


そんな政府のやり方に不満を抱いた福沢諭吉は新暦が開始されると同時に『改暦辨』を発売しました。


「 暦の変更は一大事件である。改暦を断行するには国民にその理由を知らせ、新旧の暦の差異を丁寧に繰り返し説明して、納得させる必要がある。」


あの、お酒好きの福沢諭吉先生、やる時はやるんですね。


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徹夜してわずか6時間ほどで『改暦辨』の啓蒙書を書き上げてしまいます。


「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい。」


明治政府の改暦を擁護しました。


この本が販売されると大人気になり、売れに売れます。そのタイミングの良さと、内容的にも平易で解りやすい内容だったのです。


こうして、福沢諭吉先生の活躍があり、日本全国に新暦が定着していきます。


「あさが来た」NHK連続ドラマに登場の福沢諭吉先生、散歩をしたり、ビールを飲んだりのシーンが多いですが、さすがは慶応義塾の創設者です。



もう12月は失くなることはありませんが、福沢諭吉先生のみがお財布から失くなります。寂しいです。(笑)




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福沢諭吉は「東洋になきものは数理学と独立心」と訴え、日本の近代化を後押しした。なんと崇高な人物。








ところが、小さい頃よりお酒、大好き人物。


まあ、学者や科学者にも、お酒大好きな人物も多いとは思いますが…。


NHK連続ドラマでは


あさが入ったお店に福沢諭吉がビールを頼んでいます。


明治時代にビール、ハイカラですね。


実は福沢諭吉は欧米に渡航した後はビール党になり、自宅にはビールが常備され、知人が来ると振舞っていたそうです。


福沢諭吉はビール党だったんです。


「キリンビール」でしょうか?
「アサヒビール」でしょうか?
「サッポロビール」でしょうか?
「サントリービール」でしょうか?


そんなことはない、外国の輸入ビールだと思うかも知れませんが。


明治2年にはもう、日本でビールが製造されていました。







1888(明治21)「ジャパン・ブリュワリー」が「キリンビール」を販売しています。



明治25年にはアサヒビールが販売を開始しています。



日本でのビールの販売は明治の早くから販売されているのです。



ビールのお値段は大瓶1本で16銭。今の価格ですと4750円もしたそうです。一般家庭ではなかなか買えなかったでしょうね。








福沢諭吉はビールが大好物。禁酒はしょうとしたが、断酒中であっても「ビールはアルコールではない」と言ってビールは飲むのを止めなかったそうです。



ビールはお酒です、なんと言う屁理屈なんでしょう。



「酒のためには有らん限りの悪いことをして随分不養生も犯しましたが、また一方から見ると私の性質として品行は正しい」



いくら飲んでも、悪態を吐かず、喧嘩をせず、遊郭に行かず、借金をしなかったから「品行は正しい」。



しかし、



「酒とさえ言えば一番先にまかり出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がっていた」



これが福沢諭吉の「行動学」なのです。



ここまで酒好きな学者や科学者はいません。ほんとに、なんてお酒好な先生なんでしょうか。



このお酒好きな先生が「10000円札の肖像画」になったんです。



みなさんが、ありがたいと毎日崇めている「10000円札の肖像画」の福沢諭吉先生がこんな大酒飲みだったとは



これこそ、あさの言う「びっくりぽん」ではないでしょうか。




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「あさが来た」NHK連続ドラマ、福沢諭吉演じる武田鉄矢の登場シーンがユニークでしたね。







明治の街を学生を何人も連れて、足速やに歩いて、あさと出会いました。福沢諭吉の散歩シーンなんでしょうか。


福沢諭吉の散歩を息子、福沢瑛一が1956年「父 諭吉の日常」にて鮮やかに書いています。


『…まず、玄関でドラを鳴らして山の上にいる生徒を集めて、ゾロゾロと門から出かけて行く、それを見かけて町の下宿などにいる者が飛び出して来て仲間に入る。いつも来る一人が寝坊して来ないと、その二階の下に行って怒鳴る。そうすると、あわてて着物をひっかけて顔も洗わずに転げだしてくる奴もある。…歩きながら時々おせんべいなどを袂から出してみなに食べさせた。このように雑談しながらあてもなく1時間から2時間歩くのが朝の散歩でした。』


ドラマと同じか、それ以上の学生を連れて散歩していたようです。


福沢諭吉も62歳頃の「福翁自伝」の「老余の半生」の章にも自分の散歩につい書いています。


「今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝の三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩し…」


芝の三光から古川辺ですから「散歩」の距離はおよそ6km程度、やはり1時間から2時間はかかったのでしょう。


福沢諭吉は健康のためにも、学生達とのコミニケーションを取るためにも学生を大勢引き連れて散歩したようです。


明治の町の人々にはそうとうユニークに見られたんでしょうね。







明治以前には散歩と言う言葉はありませんでしたし、散歩と言う習慣もなかったようです。


英語のウオーキングを訳して「散歩」と言う言葉が出来ました。


福沢諭吉が「散歩」を外国から紹介し、世の中に広めたのかどうかはわかりませんが、明治は「散歩」ブームになります。


健康にも良く、気分も良くなる散歩があちこちに広がっていったようです。


散歩の歌まで出来、明治は散歩ブームがあっと言うまに全国に広がったのでした。





散歩唱歌          大和田建樹

           
来(きた)れや友よ 打(うち)つれて
愉快に今日は 散歩せん
日は暖かく 雲はれて
けしき勝(すぐ)れて よき野辺(のべ)に

空気の清き 野にいでて
唱歌うたわん もろともに
急げ 花ある処(ところ)まで
急げ 草摘(つ)む処まで








いいですね。散歩って。私たちが毎日のようにしている散歩のルーツが実はこのシーンにあったのです。


「あさが来た」NHK連続ドラマはいろんなことを私たちに教えてくれます。


今日はどんなドラマが展開するのか楽しみですね。


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