1911年平塚らいてうは日本で最初の女流文芸同人誌『青踏』を創刊。



『青踏』の表紙の絵は高村光太郎の妻、高村智恵子です。









『青踏』の冒頭で次のように語りかけます。



『元始女性は太陽だった。



 真正の人であつた。



今、女性は月である。



他に依つて生き、他の光によつて輝く



病人のやうな蒼白い顔の月である』



ショッキングな文章です。



女性は自立する太陽なのです。



一個の人格です。



いまや、社会に束縛され、男性に束縛され輝きを失っている。



女性よ権利を取り戻せ。



『女性解放の宣言』です。



日本の女性解放運動のスタートだったのです。









★平塚らいてうはどんな女性だったのか



平塚らいてう、本名は平塚明(はる)。



父 は和歌山(紀州)藩士から明治新政府の会計検査官になった人物。



母は田安家の医師の娘である。



田安家は吉宗が次男宗武に与えた家です。



平塚らいてうは紀州徳川家家来の血筋でした。



成瀬仁蔵が設立した日本女子大学にも入学しています。



平塚らいてうはいいところのお嬢様だったんです。







★平塚らいてうは夏目漱石の門下生、森田草平と心中する。有名な塩原事件です。





いいところのお嬢様ゆえか、世間の枠からはずれていろんなことをやってしまいます。



心中は未遂に終わりますが、その後平塚らいてうは次のように語ります。



「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり」



平塚らいてう、考え方が飛び過ぎていて一般人には理解できません。



★平塚らいてうは夏目漱石『三四郎』小説の里見美禰子のモデルである。



夏目漱石は小説『三四郎』に平塚らいてうをモデルにしています。



里見 美禰子(みねこ)です。



自由放任主義で育った都会の女性。三四郎を翻弄する。まぶたは二重。英語が得意。亡き長兄が広田萇と懇意であった。本郷区真砂町に住む。



小説の中で美禰子は三四郎に話します。



「迷子」


女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。


三四郎は答えなかった。



「迷子の英訳を知っていらしって」



三四郎は知るとも、知らぬともいい得ぬほどに、この問を予期していなかった。



「教えて上げましょうか」



「ええ」



「迷える(ストレイ)子(シープ)――解って?」



夏目漱石は平塚らいてうの中に知的で自由奔放に生きる『新しい女性』を見つけたのではないでのでしょうか?



ただ、『新しい女性』にとっては明治時代は迷える子でしかなかった…。




★発起人の一人が漱石門下の女流作家物集和子であった。



『青鞜』を発行する青鞜社はその発起人のひとりに名を連ねるたのが漱石門下の女流作家物集和子(もづめ・かずこ)です。




『青踏』も物集家に集まって行われていました。



ただ、平塚らいてうは自由奔放ゆえに、いろんな人から嫌われてしまいます。




女性の権利を訴えるものの子育てと両立させる与謝野晶子女史に嫌われました。




婦人教育に人生をかけた津田梅子女史からも疎まれていました。




創刊から1年半、姦通を扱った小説を掲載したことで発禁処分になります。




平塚らいてうは自由奔放に生きますが、自由奔放ゆえにあちこちと衝突するしかなかったのです。




物見和子も父親から平塚らいてうとの付き合いを禁じられてしまいます。




★平塚らいてうにとっては



平塚らいてうは自分の思うように自由奔放に行動しますが、自分の思うように生きようとすればするほど社会や世の中と衝突してしまいます。




平塚らいてうにとって社会に嫌われようが世間に嫌われようが、そんなことはどうでも良かったようです。



『わが生涯のシステムを貫徹す。』



自分の意思によって人生を決めること



このことに拘り



そしてそのように生きた。



それが平塚らいてうなのです。