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「あさが来た」東京に出て来たあさはガス灯の灯りに文明を知ることになります。それほど、ガス灯の灯りは明るく美しかったのでしょう。






★日本に於けるガス灯の歴史

1871年( 明治4年 )に横浜駐在ドイツ領事がガス会社設立を計画。神奈川県に出願しました。


しかし、神奈川県令 ( 神奈川県知事 )
井関盛良 ( いぜき もりよし ) はガス会社は日本人自ら行う事業であるとし、これを認めなかった。


県令井関盛良は高島嘉右衛門ら有志に諮って別にガス製造所の設立を計画し,フランス人技師ペレゲレンの設計監督のもとに工事を起こし,翌年9月完成して外国人居留地にガス灯を点火しました。


これが日本におけるガス灯の最初です。


このガス灯の事業は成功し、やがて全国へ広がりますが、やがて電気の発達とともに、電灯に移り変わっていきます。


歴史ではなかなか語られない話です。


この時の神奈川県令が井関盛良はほとんど知られることがないのですが、多くの業績を残しています。


★井関盛良の経歴

井関盛良は現在の愛媛県宇和島出身である。宇和島の伊達藩の武士の子供で、明倫館で修行し、文武に頭角を表した盛艮は18歳で藩主伊達宗城の近習となり、のち大目付役軍使兼帯社寺奉行となりました。


慶応2年(1866)藩命で長崎に赴任し、宇和島藩の貿易事業の責任者となった。


長崎で坂本龍馬、五代友厚、本木昌造
らと知り合い、海外事情に精通しました。


この頃知り合ったイギリスの外交官アーネスト・サトウは「宇和島藩士で最も重要な人物」と盛艮を書き記しています。


慶応4年(1868)明治新政府に出仕し、同年神奈川裁判所判事などを経て、明治2年(1869)第5代神奈川県知事に就任しました。


さらに外務大丞を兼任し、神奈川県行政と日本外交を同時に推進する重責を負った。


盛艮がその在任中に横浜で行ったことは多数あります。


東京・横浜間往復馬車会社設立、外国人居留地に山手遊園開設、梅毒病院の建設、屠牛場建設、洋食店開店、灯台の設置、そして外国人居留地に最新式の無橋御式鉄橋をかけました。



どうですか、神奈川県令の井関盛良もいろんな業績を残しております。



歴史では、明治のガス灯のように多くの物や人物が時代とともに、いつの間にか忘れさられてしまうのです。