NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一と池田二郎がNHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』をコンビで作り、次には『君の名は』を作ることになり、二人の仕事はどんどん忙しくなりました。
ラジオドラマでのメイコンビのモデルは古関裕而と菊田一夫。二人は、年齢も菊田が1才上とほとんど変わらず。相性も良かった。
出会いは1937年(昭和12年)の戦前のNHKラジオドラマ『当世五人男子』で一緒に仕事。評判が良く『思い出の記』『八軒長屋』と二人コンビでラジオ放送を作っていました。
■戦後のラジオドラマ
1945年(昭和20年)10月日本放送協会の独活山万司(うどやままんじ)から「古関裕而と菊田一夫で戦後初のラジオ・ドラマ『山から来た男』を担当してもらいたい」との連絡を受け、戦争で途絶えていたコンビが復活しました。
そしてCIEより菊田一夫にラジオドラマの依頼があったのが昭和22年7月から開始された「鐘の鳴る丘」でした。
菊田一夫脚本、古関裕而音楽のラジオドラマ番組。人気が人気を呼び何と3年6ヶ月も続きました。
娯楽の少ない敗戦直後の国民は、そのストーリーと音楽につかの間の心の安らぎを求めていた人々に未来の希望を与えたのでした。
当時売れっ子の菊田は、実はその脚本執筆で苦悩していた。国民に受けるストーリーは、そう安易にはかけるはずがなかった。
番組に穴をあけるわけにはいかないので、スタジオに入っての脚本執筆となる。放送時間が押し迫っても、完成しない脚本。そこに古関の出番がやってくる。
菊田の台本の出来るまでが古関の勝負である。そのとき大活躍したのが、ハモンド・オルガンであった。この楽器はピアノと違い、音に連続性がある。つまり音を長くのばすことができるわけで、その間に次の曲想が生まれる。その繰り返しの中で古関は音楽を創りました。
古関は今まで学んだ多くのメロディーを想起しつつも、即興曲を演奏し続けた。菊田の台本がやっと完成すると、ハモンド・オルガンの役目が終わるわけではなかった。いよいよ本番である。古関はその後も続いた「君の名は」でも見事な演奏を披露し続けた。けだしハモンド・オルガンと古関は、戦後のNHKラジオ・ドラマを支えたのでした。
■古関裕而は舞台音楽へ
昭和30年(1955年)、菊田一夫が東宝の演劇部門の重役として東宝に移籍すると、古関裕而も約10年間続けたラジオドラマを後にし、菊田一夫とともに、東宝劇場や芸術座を中心に舞台音楽を手がけるようになります。
1956年(昭和31)年2月、第一回東宝ミュージカルは菊田一夫脚本・演出、音楽・古関裕而「恋すれど恋すれど物語」で上演。エノケン、ロッパ、越路吹雪、宮城まり子など豪華配役陣で大盛況でした。
同年8月映画となり上映される。
1957年(昭和32年)小林一三は「現代劇」を熱望する菊田一夫の為に、ヒビヤ芸術座を創設。
杮落しは4月25日、山崎豊子原作・菊田一夫脚本・演出、東宝現代劇「暖簾(のれん)」。主演は森繁久彌で大好評。
菊田一夫は「お客様の心の躍るような最高のエンターテイメンを・・・それには第一に脚本、第二に脚本、第三に脚本だよ」と「がめつい奴」「放浪記」「悲しき玩具」「夜汽車の人」など数々の名作を生み出し、また宝塚の生徒さんを芸術座に出演させて多くの女優を育てたました。
1961年(昭和36年)丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」が公開。東宝のミュージカルは、本場のミュージカルとは、ほど遠いなどと言われた。菊田一夫と古関裕而は日本のミュージカルの為に真剣に立ち向った。超多忙な一年の間に四回も渡米。ブロードウェイ・ミュージカルの数々を観劇した中で、ある作品に感激。このミュージカルなら日本人に肌合いがあう。このミュージカルをすべて日本人の手で上演する価値があると決断。
1963年(昭和38年)9月、東京宝塚劇場にて日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を上演。
もちろんオープンの指揮者は古関裕而でした。
江利チエミ(イライザ)、高島忠夫(ヒギンズ教授)ら出演者総勢百一名がそれぞれ好演。
「日本のミュージカルの夜明けとなる公演だ」など劇評は各紙、絶賛。
同年10月、日生劇場が完成。ドイツオペラで杮落し、一年後の昭和39年11月、アメリカ人によるブロードウェイ版の「ウェスト・サイド物語」が来日公演。
1965年(昭和40年)5月、東京宝塚劇場にて、東宝ミュージカル国際公演「ハロー・ドリー」を上演。アメリカ国務省派遣文化使節団一行が来日。主演のメリー・マーチンが宝塚劇場の舞台に立った。「日比谷にブロードウェイがやって来た。」ミュージカルファンには、たまらない喜びだった。だがまだ、ごく限られた人だけのものだった。
古関裕而と菊田一夫のコンビは菊田が死去する1973年(昭和48年)まで、約18年間続きました。
18年間の間には、演奏中に劇場の火災に巻き込まれるような惨事や、古関裕而自身が胃潰瘍で倒れるハプニングもありましたが、もともと舞踊組曲やオペラに関心があった古関裕而は、この舞台音楽を手がけた日々と菊田一夫の逝去を、自伝「鐘よ鳴り響け」の中で次のように語っています。『全く忙しい毎日ではあったが、実に楽しく愉快な日々の連続であった。ただ夢中で過ぎていったこれらの日々に終止符が打たれようとは、想像だにしなかった。』
NHK連続ドラマ『エール』にミュージカルのスターたちが多く出演しているのも二人が日本のミュージカルを生み出した古関裕而と菊田一夫だからなのかも知れません。