2018年06月14日

紫陽花と2つの恋の物語

6月ジメジメした梅雨の季節かと思うとなんだか鬱陶しい気分です。


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路端にあじさいの花が綺麗に咲いていま した。梅雨はいやだけど紫陽花は好きです。心が癒されます。


紫陽花の花を見てこんな話を思い出しました。


『シーボルトと紫陽花』


青いガクアジサイを、ヨーロッパに 

持ち込んだのが、鎖国時代に長崎に 

来日した医師・シーボルトです。


シーボルトは日本地図を、海外に持 

ち出そうとして、国外追放されるの 

ですが母国に帰国するとき、紫陽花を持って帰ります。


日本に滞在中の妻「お滝」の名を つけ「オタクサ」として、祖国の ドイツに紹介しました。 


それで紫陽花の学名はハイドランケオタク サとなっているそうです。


遠いオランダの地からシーボルトは 

日本でのお滝との思い出をあじさい 

の花をみながら思い出していたんで 

しょうか。 


『大村益次郎とおイネ』


江戸時代後期、シーボルトにオランダ語を学んだ村田蔵六 ( 大村益次郎 )は宇和島の伊達藩に雇われてオランダ語を教えていました。


村田蔵六は変った人物で、夏の暑い日「お暑うございます」と挨拶されても「夏は暑いのはあたりまえ」とか、「よい天気ですね」と言われれば「見ればわかる」と返事をしたと言われています。


村田蔵六は、シーボルトの娘、おイネにオランダ語を教えていました。


おイネはお滝とシーボルトの子供です。


ある6月の日、村田蔵六とおイネは二人そろって雨上がりの神田川原(じんでんがわら)を歩いていました。


おイネは村田蔵六に「イク・ホ・ヴァン・イェ」 と呟き、オランダ語の意味を聞きます。


村田蔵六は「  …  


ただ 何も答えず赤くなっていました。


二人はだまって見つめあうだけでした。


オランダ語で愛してるは「Ik hou van jou」イク・ホ・ヴァン・イエと言います。


おイネから村田蔵六への愛の告白だったのでしょうか?


川原には可愛い紫陽花が綺麗に咲いていました。


時間だけが止まっていました。


その後、村田蔵六は故郷長州藩のおかかえとなり、大村益次郎と改名。


薩摩・長州藩倒幕軍の司令官として幕府を倒す大活躍をします。


大村益次郎なくしては新しい日本は生まれなかったのです。


その大村益次郎も1869年( 明治2 )に京都で刺客に襲われ、大阪の病院に入院します。


横浜にいたおイネは病院に駆けつけ熱心に看病したそうです。


『シーボルトとお瀧』『大村益次郎とおイネ』紫陽花の花には淡い恋心が似合います。




keijidaz at 13:02|PermalinkComments(0) | 宇和島

2018年03月15日

「わろてんか」映画はなぜ「忠臣蔵」?隠された真実を恋愛脚本家吉田智子が暴露する。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では主人公てんの発案で『忠臣蔵』原案の恋愛映画を制作することになり、楓(岡本玲)が台本の執筆を買って出て、リリコ(広瀬アリス)たち芸人は少しでも目立つ役をもらおうとアピールを始める。


『わろてんか』第137話では、てん

(葵わかな)発案で『忠臣蔵』原案の恋愛映画を制作することに


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180314-00010005-realsound-ent


北村笑店のモデル吉本興業で「忠臣蔵」の映画を製作したと言う事実はない。


脚本家吉田智子が作った全く架空の話です。


なぜ?


忠臣蔵なの?


戦時中に制作された映画でなんと「忠臣蔵」の映画が多いことに驚く。


「忠臣蔵」の映画


昭和14年 「忠臣蔵」(大都映画) 出演:阿部九州男、松村光夫


昭和14年 「元禄快挙余譚」(松竹) 出演:土屋主税、林長二郎


昭和15年 「忠臣蔵・天の巻」「地の巻」(日活) 出演:阪東妻三郎


昭和16年 「忠臣蔵・前編」「後編」(東宝) 出演:大河内伝次郎


昭和18年 「元禄忠臣蔵・前編」(松竹) 出演:河原崎長十郎


昭和19年 「元禄忠臣蔵・後編」(松竹) 出演:河原崎長十郎


毎年のように「忠臣蔵」の映画が上映されている。


なんと「忠臣蔵」の映画と軍部の検閲も緩く、上映が許可されていたのだ。


なぜ「忠臣蔵」の映画だけ軍部のうけがいいんだろうか?


「忠臣蔵」は浅野匠が松の廊下で吉良上野を切りつけ切腹。


家来が主君の仇討ちを果たすと言う物語に過ぎない。


この江戸時代の仇討ちの物語のどこに軍部の評価が高かったのか?


「忠臣蔵」はたんなる仇討ち物語ではなかった。


軍部の考えでは「皇道」すなわち天皇陛下が全てのものの一番最上のものであり、「忠臣蔵」は「皇道」の実践者を褒めたたえる映画だからこそ軍部の評価の高い映画となっていたのだ。


天皇陛下を思って行動を実行した唯一の実例が四十七士の仇討ちであった。


それは軍部も知っていたし日本国民全てが知っていた歴史的な事柄であり、だからこそ「忠臣蔵」映画が戦争中も上映され続け、国民に大人気だったのだ。


真実の「忠臣蔵」物語


怨敵・吉良家は高家の肝煎(筆頭)。


その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあった。


実際は幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することである。


当時、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、禁中并公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止をも断行した。


つまり、軟禁状態に置いたということである。


それ以来約250年の長きにわたって幕府の皇室軽視は続いたのである。


この頃の具体的確執はというと、


「後水尾天皇」は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子、和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、また、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与えたことに反対抗議して退位させられた。


その後、「明正天皇」(和子の子=秀忠の孫)が即位されることになったが、その陰には吉良家などの高家による陰謀、工作があった。


「明正天皇」継承に邪魔な皇子はことごとく堕胎や殺害されたと伝えられている。


以後は、「後水尾上皇」が院政を行われて幕府となんとか対峙された。


承応三年には、「後西天皇」が即位されたが、それと前後して豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、津波、など異常気象による自然災害が起こった。


今度はそれを四代将軍・家綱は、凶変の原因は「後西天皇」の不行跡、帝徳の不足にあるとして無礼にも退位を迫ったのである。


その手順と隠謀を仕組んだのも、これまた高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。


そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家・吉良側)の放火によるとの説が有力である。


一方、赤穂浅野家は尊皇が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあった。


幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。


幕府放火とみられる京都御所建て替えに際し、尊皇派の赤穂浅野匠頭長直(長矩の祖父)に禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)を命じ莫大な負担を強いたが、逆に浅野家は名誉なことと受け止め、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。


しかし、御所落成を機に工作を弄し、寛文三年、「後西天皇」は遂に退位させられ、霊元天皇が即位された。


幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言わざる聞かざるの政策をさらに徹底させることになる。


そして、この禁裏御所御定八箇条の発案も、吉良上野介によるものであった。


浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されている。


浅野内匠頭は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでいることから、遺恨説が有力とされている。


しかし、以上の事を考えると、この遺恨は、私憤ではなくまさしく公憤である。


当時の尊皇派大名は、明治維新時のなりすまし尊皇派とは志の「誠」が違うのである。


この刃傷事件が、勅使、院使の江戸下向の際に起こったことを考えれば、浅野内匠頭がよほど隠忍し、見逃す事の出来ない、皇室に対する更なる不敬の所業が将軍家並びに吉良上野介にあったはずである。


それゆえ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙である。


浅野内匠頭は、その本意が漏れて、これにより朝廷へ迷惑が及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らなかった。


しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、申し開きせず黙って切腹したのだ。


尊皇の志篤い浅野内匠頭長矩が、芝居で語られるような、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名断絶を覚悟してまで逆上して刃傷に及ぶという乱心説で説明できるものではない。


浅野内匠頭をなじる人の多くがある書物を用いて評する。


それは「土芥寇讎記」という当時の諸藩通信簿のような書物であり、浅野内匠頭が、さんざんコキおろされている。


儒教色強い記述内容から徳川綱吉の意向が反映された書物で、尊皇派については良く書かれていない物だ、筆者も時期も不明。


あきらかに当時のプロパガンダである。


ネット上でも、「浅野内匠頭がキレやすい性格」「この様な君主をもつ家臣は迷惑」「頭痛持ちで、短気な性格」「精神異常者」などの迷言が謳われているが以上の事は全く当てはまらない。


浅野内匠頭長矩は、本来の士道に副った「もののふの誉れ」であり、誠に天晴れな皇道の実践者であった。


楠木正成公・上杉謙信公に次ぐ「誠」の志高い尊皇派の名君なのだ。


ドラマはどうなるの?


脚本家、吉田智子は全ての事実を知った上でNHK連続ドラマ「わろてんか」で北村笑店の初めての映画を「忠臣蔵」としている。


確かに軍部の評価の高い「忠臣蔵」であるが、これに恋愛物語をからめたらどうなるのか?


天皇陛下を崇める映画に恋愛物語をからめるとは破廉恥だと大激怒し、中止になるのではないだろうか。


「忠臣蔵」の隠された真実を暴露し恋愛物語としてどうす成立させるのか。


ここは恋愛脚本家、吉田智子の脚本家としての見せ所です。


さてドラマではどうなるのか?なんだか楽しみですね。




2018年03月14日

時代の空気「ゴーストップ事件」てんと伊能栞の苦悩。

NHKの連続テレビ小説「わろてんか」は第24週「見果てぬ夢」を放送。


北村笑店に映画部が発足し、伊能(高橋一生さん)が顧問に就任する。


てん(葵さん)たちは早速、恋愛映画を作ろうと意気込むが、検閲は日々厳しさを増すばかり。


そこでてんは、検閲をかいくぐるための秘策を思いつく……


<明日のわろてんか>314日 第136回 てんにひらめき? 検閲かいくぐる秘策とは

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180312-00000035-mantan-ent


NHK連続ドラマでは戦時に入っていますが、現代の平和な時代では空気感が伝わり難いですよね。


マーカス・ショウが日本に来た前年の昭和8年にはこんな事件がありました。


「ゴー・ストップ事件」


1933年( 昭和8 )6月17日。


大阪・天神橋六丁目(天六)の交差点で小さな騒動が起きた。


陸軍第四師団所属の軍人が赤信号を無視して、道路を横断しようとしたところ、これを見た派出所の警官が注意。


軍人はそのまま車道を突っ切ろうとしたため、押し問答となった。


警官は軍人の襟首をつかみ、交差点脇の天六派出所に連行。


激しい口論となり、殴り合いへと発展した。


ゴー・ストップとは信号のこと。


当時はまだ信号機自体が珍しく、大阪では混雑の激しい交差点に導入されたばかりだった。


野次(やじ)馬の一人が軍側の大阪憲兵隊に通報したことから、事態は思わぬ方向へと進んで行く。


連絡を受けた憲兵隊員が駆けつけると、軍人が唇から血を出していた。


憲兵隊員は派出所から軍人を引き取って戻ると、上司に報告。


同日中に大阪憲兵隊から大阪府警に抗議の電話が入った。


騒動は翌日の新聞各紙で取り上げられた。すると軍側が過剰反応し、厳しい警察批判を展開する。


この騒動は、軍服を着用した現役軍人に対する警官の不法暴行事件だと憤り、「皇軍の威信に関する重大問題」との認識を示したのだ。


警察側も黙ってはいない。


警察部長は「軍隊が陛下の軍隊なら警察官も陛下の警察官である」と応答。


いかに軍人であろうとも、私人の資格で通行しているときは交通信号を守るべきで、警官の注意は妥当との見解を示した。


これに寺内寿一第四師団長は激怒。


「警察は軍をなめている」として、徹底抗戦の姿勢をとった。


そして軍側が示したのが「外出兵士もまた統帥権内にある」との見解だった。


軍人は一般市民とは異なる。


軍人は軍服を着用している以上、その身体は天皇に捧(ささ)げられており、軍人の名誉を傷つけるような処置は、いかに警察といえども「越権の行為」である。


要するに、多少の問題があっても、警察は統帥権内にある軍人に手出しをするなと言うのである。


争いは泥沼化。


荒木貞夫陸軍大臣が介入するが、和解は決裂した。


そして、遂(つい)に死者が出る。


天六派出所を管轄する曽根崎警察の署長が、心労で死去。


さらに、目撃者の一般人が憲兵隊と警察の双方から尋問を受け、ノイローゼとなって自殺した。


ここで登場したのが昭和天皇だ。


荒木陸相に「大阪のゴー・ストップ事件はどうなっている」と尋ねると、恐懼(きょうく)した陸相は早急な解決を指示した。


結果、警察側が軍部に屈する形で決着がなされた。


最終的に軍部が警察に勝利をおさめたのである。


ただし、その和解内容は公表されず、現在に至るまで不明のままである。


著者は、事件発端の「ばかばかしさ」と、結末の「深刻さ」の落差に、ファシズムの本質を見る。


「昭和八年というのは、もはや後戻りできなくなった年で、その分水嶺(ぶんすいれい)となったのがゴー・ストップ事件といっていい。」


この事件をきっかけとして、公務外の「統帥権」が確立し、暴走に拍車がかかったからだ。


てんと伊能栞の苦悩


信号を無視したのだから軍人が悪いのはあたりまえなのだが、最後は警察が謝ると言う前代未聞の話です。


この事件か以後、軍部の意見が全てになってしまった。


誰も軍部に逆らうものはいません。


戦争に反対すると、非国民と言われます。


また、ろう獄にぶち込まれます。


これでは自由な意見など言えるはずもなく、もはや日本には自由な社会は存在し得なくなっていた。


そんな社会に於いて「わろてんか」朝ドラの主人公てんと伊能栞はどうすれば庶民に「笑い」や娯楽を届けることができるのかを模索します。


てんと伊能栞の苦悩はいかばかりのものだったのか?


平和な時代に戦争の時代のことは理解できない。


人はその時代にいなければその時代のことはわからないのでしょうね。




2018年03月13日

「フィルムは弾丸である」大本営発表。伊能栞( 高橋一生)の苦悩。

NHK連続ドラマ「わろてんか」主人公てん(葵さん)は「わろてんか隊」の功績を認められ、勲章を受章する。


一方、伊能(高橋一生さん)の会社では、キース(大野拓朗さん)主演の映画を製作するが、検閲により公開直前に大幅な修正を要求される。


恋愛映画を下劣と見なす国の考え方に賛同できない伊能は……


<明日のわろてんか>312日 第134回 伊能の映画製作に検閲の壁 国の考えに賛同できず

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180310-00000033-mantan-ent


当時の日本の映画は軍部の圧力によってなかなか自由な映画作りができなくなっていました。


やがて国が映画を国の管理に置くために「映画法」と言う法律が作られました。


映画法


昭和14年「映画法」は,ナチス・ドイツの映画政策を 参考にして,内務省と文部省の共同で立案され,そして 厚生省も参加した形で,第74帝国議会に上程された。


木戸幸一内務大臣


「我国の映画に 対する政策を顧みるに法令に基づくものとしては内務省 における映画の検閲,文部省における映画の推薦,認定, 大蔵省における輸入映画の税関検閲等の程度を出でず, 又事実上の措置としても,各官庁が特殊の宣伝目的の為 映画を製作する程度に過ぎないのであって,之を欧米諸 外国における如くつとに映画国策を樹立し,映画法制を 整備し,自国映画産業の発展を企画して,外国映画の進出を防止し,或いは其の質的向上を図り,或は之が国家 的目的の為に映画を活用する等に努めて居る実情に比し, 遺憾ながら著しく消極的且不十分なるものであると謂わ なければならない」


と説明した。


「映画法」では


1 「本法ハ国民文化ノ進展ニ資 スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画事業ノ健全ナル発展ヲ 図ルコトヲ目的トス」


ようするに日中戦争下で戦時体制が強まった1939年、映画産業を国の管理下に置くため制定されたのが映画法でした。


フィルムは弾丸である。


昭和168 月,「フィルムは弾丸である。最早や民間に廻すフィルムは一尺もない」という大本営陸軍報道部長の谷萩那華雄 大佐の衝撃的な発言に映画界は騒然となる。


城戸四郎ら 映画各社の代表となる大日本映画協会の常務理事たちが 情報局に召喚され,そこでの川面隆三情報局第五部長か らの指令は,「映画用フィルムの原料は臨戦軍需品である が故に現状のままでは民需に応じ得なくなった。


映画界 も臨戦体制に切り替え,機構の整備再編成を必要とする。 


然らざれば製作は即日停止するのやむなきに至るだろう」 というものであった。


すでにニュース映画各社(毎日,朝日,読売,同盟) は,のちに日本映画社(略称日映)となる日本ニュース 映画社1社に統合されていたので,劇映画の各社も危機 感を持ち,緊急首脳会議を開き,映画統制会を設けて情 報局に対し折衝を重ねることになる。


情報局が示した「新体制」案は,劇映画を第一,第二 製作所に統合し,文化映画の第三製作所も加えた3社案 であった。


これに対し,当時新興キネマ京都撮影所長で あった永田雅一が対策委員長となり,軍部に対し再三働 き掛けを行う。


城戸四郎の「日本映画伝」によると,「松竹,東宝の二 つは純然たる民間映画会社だが,この際情報局の指令に 従って動く半官半民会社を持つべきだ それを大映にすべ きである)」という永田の野望である。


その結果,文化映画を除いた劇映画製作 3 社とするこ とに決定した。


これによって再編されたのが,第 1 製作所として,大 宝,南旺,東京発声,宝塚を東宝が統括し,第 2 製作所 は興亜を松竹に吸収,そして,第3製作所として 日活 新興キネマ,大都を統合して,新らしく大映(大日本映画 株式会社)が設立された。


これは新興キネマという小会 社が日活(日本活動写真株式会社)という老舗の大会社 を飲み込むことを意味しており,これには当然日活首脳 部は反発,配給関係を外し,スタッフや製作関係だけが 合併することになった。


情報局が軍需に必要なフィルムは民間に回せないとして映画の国家管理の声明を出し、これによって10社あった映画会社が3社となり、映画制作数もこれまで30本ほどあったものが、3社で6本に制限されます。


この月の宝塚歌劇雪組のレビューは、《大空の母》が公開されます。


新たに定められた920日の《航空の日》に定められた事と、軍の航空思想の普及に協力して演じられたもので、空を守る為出征する夫や子供を送り出す母を描いたもので、これ以外にも花組の【進め軍艦旗】、月組の【海の日本】など宝塚歌劇でも軍事色を多くなって行きます。


自由な映画はもう作れなかった。


NHK連続ドラマ「わろてんか」で伊能栞、モデル小林一三はもはや映画・演劇夢感動、喜びをもたらす数多くのエンタテインメント作品を届けることはできなくなっていました。


小林一三は「健全な娯楽を広く大衆に提供すること」は日本の社会ではもはや許されない状況になっていたのです。


NHK連続ドラマの「わろてんか」伊能栞が映画作りに苦悩するように、小林一三も大いに悩んだのに違いがありません。



2018年03月12日

「わろてんか」史実、吉本興業と小林一三と映画。ドラマは真実ではない。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では伊能(高橋一生)は制作した映画が検閲で次々と公開中止となり、その責任を問われ社長を辞任することに。


伊能はてんと風太を訪ね、北村笑店の役員を辞めさせてほしいと願い出るが、風太はキース(大野拓朗)やリリコ(広瀬アリス)ら芸人たち総出演の喜劇映画を作りたいと、北村笑店に映画部を新設し伊能を顧問に迎えた。


『わろてんか』第24週、北村笑店に映画部を新設 喜劇映画を製作

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180311-00054690-crankinn-ent


朝ドラの北村笑店のモデルは吉本興業です。


また、伊能栞のモデルは小林一三です。


史実では吉本興業と小林一三と映画はどうだったのか見てみたいと思います。


吉本興業と映画


1933 昭和8年に吉本興業は「文芸」、「宣伝」、「映画」の3部門を設立しました。


1934 昭和9年には吉本初の制作映画「佐渡情話」(日活提携)が封切られ大ヒット。


「佐渡情話」がヒットしたので、吉本興業は映画「紺屋高尾」「孝子五郎正宗」「新佐渡情話」などを作り、これもヒットさせました。


昭和8年ラジオで「早慶戦」の漫才を放送して依頼、芸能界のスタートなった「エンタツ・アチャコ」。


その後、コンビは解散となっています。


しかし「エンタツ・アチャコ」のコンビ復活を望む声は強かった。


林正之助は舞台では別々のコンビで活動させたまま、映画で「エンタツ・アチャコ」を復活させたのでした。


映画制作会社PLC(東宝の前身)と提携して映画「あきれた連中」(昭和111月上映)を制作した。


漫才師が映画に出るのは、これが日本初の映画でした。


朝ドラ「わろてんか」の映画「キースのあきれた恋道中」の検閲によって上映中止となっているが、史実の映画「あきれた連中」は大ヒットし、続編が作られ、舞台にもなっています。


映画を舞台にするというのも吉本が初めて手がけたのでした。


さらに、エンタツ・アチャコは映画「これは失礼」「心臓が強い」などに主演してヒットを飛ばします。


小林一三と映画


一方、伊能栞(高橋一生)のモデル小林一三は、東京に進出して「株式会社・東京宝塚劇場」を設立していた。


そして、映画界に進出した東京宝塚劇場の小林一三は、洋画配給会社「松竹洋画興行社」との対立を切っ掛けに、配給映画だけでは間に合わなくなり、映画制作会社「PLC」と「JOスタジオ」と共同出資で、昭和11年に「東宝映画配給株式会社」を設立し、映画の自主配給網を構築していった。


さらに、東京宝塚劇場の小林一三は、昭和111118日に吉本興業と提携し、芸人の引き抜き禁止や、吉本芸人を東京宝塚劇場の映画に出演させる取り決めが交わしたのです?


こうした小林一三の台頭を脅威に感じた松竹は、日活・新興・大都と組んで、系列の映画館から東宝系の映画を排除した。


さらに、極東・全勝の2社が反東宝連合に加わり、東宝包囲網も形成し、東宝を倒産寸前まで追い詰めていった。


このようななか、小林一三は突如として東京宝塚劇場の社長を辞任するが、懇願されて相談役として残り、東宝包囲網に対抗するため「東宝映画配給」「PLC」「JOスタジオ」を合併し、昭和12年に東宝映画株式会社を設立したのです。


■ ドラマは真実ではない。


NHK連続ドラマ「わろてんか」と史実はかなり異なっています。


朝ドラを観て吉本興業の歴史がわかったと思っている方がいれば大きな間違いです。


作品のタイトルは『わろてんか』。


明治後半から第二次世界大戦直後の大阪を舞台に、ヒロイン・藤岡てんが小さな寄席の経営を始め、やがて日本で初めて「笑い」をビジネスにする様を描く。


吉本興業の創業者・吉本せいをはじめとする当時の芸人や文化人が物語のモチーフした架空の物語なのです。


まあ、細かいことは気にしないで脚本家の吉田智子さんの言うように朝ドラから楽しく笑って一日をスタートしましょう。


吉田智子のコメント


皆さん、最近ヘコたれたことはありませんか? 毎日がつらいなと思うことはありませんか? 失恋、失職、長患い‥‥人生はある日突然予想もできないことが起こるものですよね。でももしかしたら、「笑う」というささやかな行為が、私たちに希望をもたらしてくれるかもしれません。


あの未曽有の震災の時、お笑い芸人さん達が慰問先でしょうもないことを言って被災者の方々を爆笑させている姿は鮮烈でした。実は戦時中も「わらわし隊」という芸人慰問団が戦地で熱狂的歓迎を受けていたことをご存知でしょうか。


命のろうそくを手にした兵隊さんたちが笑い転げる写真に、私は正直驚き、胸を打たれました。


人は笑うことで癒され、前を向くことができる生き物なのでしょう。


だから、毎日が楽しい人も楽しくない人も、一緒に笑えるドラマを作りたいと思ったのです。


脳というのはだまされやすく、口角を上げるだけで「楽しい」と勘違いしてしまうオッチョコチョイ。


ニッコリするだけで“幸せホルモン”と呼ばれるセロトニンが分泌されるそうです。すると心は穏やかになり、ストレスも減り、不思議とやる気が湧いてくる‥‥。


「幸せだから笑う、のではなく、笑うから幸せになれる」というのは本当かもしれません。


私の目標は、このドラマをご覧になって下さる皆さんを、毎朝1回、いえ最低3回笑わせ、自分も笑い転げることです。


そして気持ちのいい涙で一日の始まりをトンとひと押し‥‥。


皆さんと一緒に、“朝活”ならぬ『笑活(わらカツ)』を広めていけたらいいなと思います。